UCの歴史、AGEの歴史

 例によって(?)また『ガンダムAGE』の話なんだけど、この作品は放送中に他のガンダム系2作品とリアルタイム性において重なっていたため、よく比較されていた。一つは『ガンダムUC』、もう一つはHDリマスターとして放送されていた『ガンダムSEED』だ。特に前者は「UCは神だがAGEはクソ」みたいな(UCにとっても決して名誉にならない)物言いのためによく俎上に乗せられていた。ひどい話である。
 とは言え、AGEとUCを比較するのは、優劣云々とはまた違う意味で面白い。
 ストーリーを追っていけばわかるように、『ガンダムAGE』と『ガンダムUC』ではどちらも、主人公に代表される「これからの世代」が歴史の重みをどう引き受けていくか、という点が物語の核になっており、テーマ上の主眼は共通している。ただ『ガンダムUC』のほうは、ファーストガンダム以来の宇宙世紀の歴史という、作中時間だけでなく視聴者・ファン自身がリアルに体験した30年の歳月の重みを当てに出来るため、「歴史の重み」を視聴者に訴えかける衝迫力の点では圧倒的に有利だ。対する『ガンダムAGE』のAG年代は、一年の放送期間という尺を使って、作中で一から歴史の重みを積み上げていくという方法を取った。どうもこのあたりが、古くからガンダムを追っているファンに「UCと違ってAGEには歴史の重みが足りない」と感じさせる要因の一つになっていたように見えるのだが、成否はともかくとして、『ガンダムAGE』のようなチャレンジ精神は大いに買っていいのではないだろうか。
 ともあれ、両作品は同じように「歴史」を物語の軸としているが、主人公たちがどのように『歴史』を捉え向き合っているのかというところで、興味深い好対照を成している。一言で言えば、UCは「共時的」なスタンスで、AGEは「通時的」なスタンスで、それぞれ歴史というモチーフを取り入れているのだ。
 以下、この点を少し掘り下げてみよう。

 まず、2作品の主人公の視点を比較してみる。こう書くと「AGEの方は誰の視点になるの?」という疑問が出てくるかもしれないが、実はこの疑問が既に、2作品の主な相違点を浮き彫りにしている。
ガンダムUC』の物語は、主人公バナージ・リンクスがラプラスプログラムに導かれるままに宇宙世紀の歴史が生み出した様々な様相を巡っていくという、一種のロードムービー的な趣向がストーリー展開の基本になっている。このバナージの位置付けには、「ラプラスの箱」を巡る争奪戦に巻き込まれる主人公という、一種の「ガンダム版宝島」みたいな面白さもある。このバナージが宇宙世紀の歴史にどう立ち会うかという点を考えると、彼は別に時間を遡って過去のルウム戦役一年戦争やらに直接立ち会うわけではない。あくまでも『ガンダムUC』の物語が進行するUC(宇宙世紀)0096現在において、過去の戦争から生み出されて現在にまで引きずっている事象に、「今」の時点において立ち会う。
 一方、『ガンダムAGE』は主人公が三世代に渡って代替わりするという、変わった趣向を持っている。主人公であるフリット・アセム・キオのアスノ家三世代は、それぞれ自分自身の「今」に立ち会ってはいるのだが、それを作中で実際につなげることで、過去に「直接立ち会う」通時的な視点を連続的に確保している。
 両作品の主人公による歴史巡りは、どちらも戦乱の歴史が現れている現場を主人公が潜り抜けたりその当事者になったりする「地獄巡り」なのだが、『ガンダムUC』では主人公の「地獄巡り」の場が共時的かつ空間的に広がり、『ガンダムAGE』では空間もさることながらまず通時的に広がっている。

 主人公の「地獄巡り」を導く重要アイテムの違いも興味深い。『ガンダムUC』では宇宙世紀元年の秘密を封じ込めたラプラスの箱、およびその在り処を指し示すユニコーンガンダム(のラプラスプログラム)。一方の『ガンダムAGE』では主人公の道行きを支える「救世主ガンダム」を進化させるためのAGEシステム。どちらも主役機のガンダム自体が主人公の道行きを支えているのだが、ユニコーンガンダムが直接過去の遺物を志向して、その遺物に向けた羅針盤の役割を持っているのに対して、AGEガンダム(?)はそれ自体が過去を志向しているわけではなく、むしろまだ見ぬ「より強い未来の姿」を目指して“進化”していくという、明確な未来志向を持っている。
「通時性/共時性」の視点から比較するなら、ユニコーンガンダムはバナージが乗る時点で既に完成された姿でそこにあり、彼は完成品を起点にしながら、そこを足場にして過去の戦争の傷跡を巡っていく。つまり「今バナージが立っている足場としてのガンダム」は揺るがない。一方のAGEガンダムは、三世代の主人公の成長と変遷に寄り添うように“進化”し続けており、完成品としての決まった形を持っていない。言い換えれば、都度都度のタイミングでアスノ家の人々の道行きを支えているガンダムたちの、通時的な集合体としての「ガンダムズ」が足場になっているのだ。
 この点で、両作品のガンダムは「過去向き」と「未来向き」という逆向きのベクトルを持っているように見えるが、そもそもAGEシステムの核となるデバイスはフリットが母から受け継いだものであり、そこに記録されたガンダムの原設計図は、恐らく過去のコロニー国家戦争時代のテクノロジー(肖像画の中の「救世主ガンダム」)を幾分か反映させたものとも捉えられるため、必ずしも一本のベクトルの違いだけで両者の違いが言い尽くされるわけでもなさそうなところが面白い。

 次いで、アイテムではなく「人」に注目して、「誰」が主人公を導いているのかを考えてみる。
 バナージのほうでまず第一に挙げられるのは、オードリー(ミネバ)という、同時代を共に生きるほぼ同世代の少女だ。バナージは常に彼女のことを、刹那的な偽名として名乗ったに過ぎないはずの「オードリー」の名で呼ぶ。それはバナージが、彼女が背負ってしまったザビ家の歴史的な重みにおいてではなく、あくまでも彼と共に今を生きている一人の少女として、彼女のことを捉えているからに他ならない。
 また、ジンネマン船長やマリーダやギルボア等といったネオ・ジオンの偽装船ガランシェールのクルー達、連邦軍側ではダグザ大尉やあのブライト・ノアといった、過去の戦争を経験してその「傷」を負っている大人たちが、「ラプラスの箱」を巡るバナージの道行きに介在し彼を導いているが、バナージが彼等に対する時のスタンスもまた、基本的には彼等の過去そのものではなく、「過去はどうあれ、いま同じ場所にいる人間」としての彼等を見ている。別に彼等の過去を考慮しないわけではないのだが、地上のジオン残党軍蜂起によってトリントン基地周辺の市街地に甚大な被害が及んだ時の、バナージとジンネマンとのガランシェール船内での衝突に端的に見られるように、バナージはどんな過去を背負った大人に対しても、まずは「いま現在」を見てほしいという姿勢を貫いている。
 同じトリントン基地のエピソードである、バナージとロニ(シャンブロのパイロット)の絡みでは、「今」にこだわるバナージの姿勢がさらに明確に示される。バナージはあくまでも今ここに生きる共時的な存在としてのロニ自身に拘り、そこに立脚して彼女をなんとか「血の呪縛」から解放しようとする。同じ戦場に居合わせたリディが、過去の歴史によって今の自分の選択が縛られてしまう「呪い」を、やむを得ぬこととして半ば諦めつつ受け入れているのもまた、バナージとの好対照になっている。ロニといいリディといい、また小惑星パラオで描かれたネオ・ジオンに生きる人々といい、『ガンダムUC』では「歴史の重み」がしばしば「血の呪縛」や「呪い」として描かれ、バナージはもっぱら「いま現在を生きる人間」として、その呪縛を突破しようとする存在として位置付けられている。言い換えれば、作中でバナージを導く人々は、いずれバナージによって乗り越えられるべき呪縛を多かれ少なかれ背負った存在として位置付けられている。オードリーの場合なら、彼女の「ミネバ・ザビ」の側面がそれに当たるのだろう。episode2のネェル・アーガマ艦橋で、ダグザに対するオードリーの「ミネバ」としての語り口にバナージが反発していたのは、その端的な現れである。

 一方『ガンダムAGE』では、同じような「呪縛」の要素を、主人公たちがむしろ進んで自らの身に引き受けようとしている。
 第一世代のフリットを見ると、彼の人生・道行きを導いている人物は複数いるのだが、最大の影響力を持つ者としてはもちろんユリン・ルシェルが挙げられるだろう。かつて同時代を生きていたが結局生きられなかった、過去形の存在だ。他の導き手も、母マリナだったりグルーデックだったりブルーザー司令だったりして、基本的にフリットは過去の犠牲者、「死者」に導かれて、「死者」のために戦っている。だが、こうした人々はフリット編でみな死んでいるわけではなく、ウルフのように後のアセム編以降の展開の中で犠牲になった者もいる。「その前」を描くことのできる通時的な物語構成であるが故に、死者に導かれるフリットも単純に「過去に囚われた存在」というだけの印象には終わっていないところが面白い。
 さらにアセムやキオを見てみると、アセムの最大の導き手はもちろんゼハートであり、別の面ではウルフ隊長なのだが、ウルフはアセム編の終盤で「スーパーパイロット」の名をアセムに託して死亡し、ゼハートはコールドスリープによってアセムと同世代の時間を生きられなくなっている。キオはまだ子供だから何とも言えないけど、作中でもっとも大きな影響を与えたと思われるルウは、やはり未来日記を遺して死亡している。アスノ家は徹底して、共時的な絆によって導かれることを拒否される運命を「強いられている」ようでもある。

 こうして見比べると、『ガンダムAGE』の主人公は通時的につながって描かれているが故に、それぞれの世代が「歴史の重み」を直接当事者として体験し続けており、だからこそ全体として「死者」に導かれる局面が多く描かれたり、自分自身の実体験としての「歴史」を積極的に背負おうとしているように見える。
 とはいえ『ガンダムAGE』も、よく見れば三世代の主人公はそれぞれ自分自身の実体験の部分を背負っているのであって、直接経験していない過去については必ずしも先の世代と同じようなスタンスで「歴史の重み」を背負おうとしているわけではない。三世代それぞれの戦争観の違い、そして最終回でセカンドムーンを壊滅させようとしたフリットをキオが止めたところなど、『ガンダムAGE』においても「歴史の重み」をただ継承するのではなく、むしろ克服していこうとする契機は描かれている。ただ、歴史として一本につなげられると、誰もが「歴史=死者」の思いを背負おうとしているため、AG年代の歴史は常に「呪い」「血の呪縛」を積極的に身に引き受けようとしているかのような印象にはなる。
 対する『ガンダムUC』の主人公は、あくまでも共時的な人間関係が基本であり、かつ主人公が一人であるため、直接実体験として背負っているわけではない「歴史の重み」についてはどうしてもある程度傍観者的にならざるを得ないという側面が強調されている。バナージ自身が積極的に「歴史の重み=呪い・血の呪縛」を振り払おうとしているだけに、なおさらその印象は強まる。唯一バナージが自分の意志で引き受けた「歴史の重み」は、オードリーとユニコーン。まさしく「貴婦人と一角獣」だ。だがそれは決して過去の怨念や復讐を引き受けるためではなく、あくまでもバナージは「ミネバ」ではなく「オードリー」を引き受ける気である。引き受けた結果として、バナージはそうした過去の「呪い」を次々と目にする「地獄巡り」をすることにはなってしまったが。

 ところで両作品には、主人公がガンダムごと敵に囚われてしまい、敵地の日常生活の一端を垣間見るというエピソードがどちらにもある。プロットが似ているだけに、比較すると両作品の主人公のスタンスの違いがより際立つので、具体例としてちょっと見比べてみよう。
 このエピソードは、時系列的には『ガンダムUC』のほうが先だったので、『ガンダムAGE』のほうでキオがヴェイガン本国に連行される展開が放送された時には、「またUCのパクリかよ」みたいな揶揄がネット上ではよく見られた。キオ編の頃には既に、だいたい何やっても何かしら難癖をつけられる運命が『ガンダムAGE』にはまとわりついてしまっていたようだ。
 それはともかく、表面的なプロットは確かによく似ている。敵に捕獲されガンダムごと捕虜にされてしまった主人公は、敵の本拠地に連行され、敵の親玉に謁見して、それまでよく知らなかった敵の国家としての意図を親玉から直接聞かされる。その後主人公は、敵の一般市民の生活状態を垣間見る。そのうちに主人公の味方的な組織が敵の本拠地に潜入して、主人公を奪還しようとする。この作戦はある程度上手くいくが、主人公の行動によって一部当初の予定からは狂ってしまう。ともあれ、主人公はまた(この時点での)味方側に戻ってくる。あと、この時の敵は捕獲したガンダムという機体に興味深々で、いろいろと機体そのものの謎のようなものを探ろうとする。
 ということで、物語の大まかなプロットをなぞると確かに同じようなものに見える。では違いはどこにあるか。

 先に書いたように、宇宙世紀の凄惨な「歴史」に対して、バナージは基本的に傍観者的な立場であって、「歴史」が自分自身の生活世界に介入してきた時には、あくまでも「いま現在」を生きる自分自身の生活実感に即したところで「歴史」を受け止める。バナージの視点は「狭い見方」とも言えるし、「地に足が着いている」とも言える。いずれにせよ、パラオでバナージが目撃した「歴史」は、老朽化した一般居住区や、その中で「光」に縋ろうとした人々の古い教会という姿で、具体的に立ち現れている。さらにこのバナージの導き手として、バナージに自らの家族と食事を共にさせたギルボアや、スペースノイドの生活と価値観を象徴する場としての教会に連れていったマリーダがいる。
 この『ガンダムUC』の展開との相違という点からキオのヴェイガン生活を振り返ってみると、まずキオには、ヴェイガンの生活や価値観のオリエンテーションを具体的な局面で進めてくれる、ギルボアやマリーダのような親切な導き手はいなかった。具体的な局面ではなくマクロ的な視野からの「解説役」としては、バナージに対するフル・フロンタルと同様、キオに対してもイゼルカントがヴェイガンの理念について語っている。この点ではフロンタルよりもイゼルカントの説明のほうがむしろ懇切丁寧ではあった。だが、敵の市民が具体的に何を考えどんな価値観を持っているのかについて主人公が知る側面では、ギルボアやマリーダの役割に相当するアノン兄妹は、キオとあまり年代の変わらない少年少女であり、決してキオに対して「教えを垂れる」ことの出来る存在ではない。だから、キオはアノン兄妹との対話や交渉の中で、「ヴェイガンとは何者か」を自力で発見するしかなかった。だがアノン兄妹がキオに見せたヴェイガン世界は、マリーダの教会のような抽象的で一般的なものではなく、決して「一般的な解」にはならない。
 だがそのことがかえって、キオに「ヴェイガンとは何者か」に対する、バナージとは違った意味で「地に足の着いた」答えを与えることになる。
 バナージがパラオについた時点で、スペースノイドの生活はネオ・ジオンという形で曲がりなりにもかりそめの安定を得ており、教会で「光」を求めるしかなかった時代は一応過ぎ去っていた。バナージは既に過ぎ去った「歴史」を後から知る立場にある。
 一方、バナージとは異なり、キオは現在進行形で死と隣り合わせにいるヴェイガンの日常のただ中に放り込まれる。セカンドムーンの中ではそれなりに生活が安定しているように見えるが、マーズレイの脅威は常に存在し、キオの目の前にもルウの病状という形で現前している。ルウやディーンは、「かつて光を求めた人々(スペースノイド)」ではなく、「いま光を求めている人々」なのだ。キオは「歴史」に対して、バナージのように傍観者としてではなく、当事者として居合わせている。
 キオの「当事者」性を如実に示す一例として、両作品に見られる、一般家庭での食事のシーンがある。どちらにも主人公の発言が食卓の空気にちょっとした動揺を招くシークエンスがあるが、バナージのほうの遣り取りが戦いの正当性を巡る連邦とネオ・ジオンの立場の対立を再確認しているのに対して、キオのほうはルウに対する「学校に行ってないの?」という何気ない一言から、マーズレイによる病禍の何たるかを初めて知るという流れになっている。UCにおける同様のシーンと見比べた場合、AGEのこのシーンの意義は、単に既に存在する対立の再確認ではなく、その対立の底にある「なぜ相手はそのような視点を持つに至ったのか」の理解につながっていく視座が、この食卓において初めて開示されるという点にある。UCのほうでは「相手方の視点のルーツ」は、この前後のフロンタルとの会話かマリーダとの会話において示されているが、いずれもマクロ的な解説に近いものとなっている。古びた街並みや薄暗い教会の背景によって、UCのほうでも間接的に「歴史」的経験のリアリティが補強されてはいるものの、「歴史」に関する語りではなく食卓の会話からもリアルな「なぜ現状がこうなのか」が立ち現れる、「歴史の当事者」としてのキオ視点の強みは得られない。
 もちろんこれは優劣ではなく、あくまでも「現在」という立脚点を崩さずに(「“現在”から振り返る歴史」という視点にこだわって)「歴史」を捉えるUCの主人公視点と、折々の時代における当事者の立場から「歴史」を捉えるAGEの主人公視点の違いに由来する相違に過ぎない。
 こうした違いは、主人公を敵地まで救いに来たのが、オフィシャルに主人公サイドを代表する正規軍(連邦軍特殊部隊エコーズ)であるか、キオの肉親であり非公式に活動する海賊であるかという違いにも、何となく反映されているような感じがするのが面白い。それがたぶん作風の違いというものであり、同じような「主人公の敵地訪問」というシチュエーションでも、作風の違う作品ではかなり異なるテイストが生まれている。

 以上、いろいろな点から『ガンダムUC』と『ガンダムAGE』における「歴史」の違いを比較してみたが、実は長々とした文章に頼らずとも、映像一つで端的に両者の違いを示すシーンがある。両作品で「ガンダム」が初めて起動するシーンだ。
「彼女が背負っているものは重いぞ。共に行くには、この世界の重みを受ける覚悟がいる。それでも……」「自信とか覚悟なんて、ない。俺は彼女に必要とされたいだけなんです」(『ガンダムUC』episode1「ユニコーンの日」)
 そして炎の中へ……炎の運命へとゆっくりと歩みだすユニコーン。『ガンダムAGE』でもやはり、AGE-1は炎の中へ歩みだすことによって物語をスタートさせていた。
 この、作中で「ガンダム」が第一歩を踏み出すシーンを見比べると、ユニコーンはひたすら重量感が強調されていたのに対して、AGE-1は後の「進化」を踏まえて、やや軽めに描かれている(恐らく意図的な演出だろう)。最初から重い、それ故に「いま現在」を生きるバナージが「歴史の重み」に抗して己を預けることのできる「完成品」としてのユニコーン。一方、折々の歴史を当事者として経験する主人公たちと共に、後からだんだん重くなっていくAGE。歴史を描くスタイルの違いとしての、『ガンダムUC』の共時性と『ガンダムAGE』の通時性が、こういうところにも現れているように思う。