ステレオタイプ

 表題は「じっぱひとからげ」と読む。言葉そのものは知っているけれど、漢字でどう書くのか、かならずしもきちんと自覚しているわけではない。この言葉もそう。「ぱ」を「把」と書くだの、「からげ」を「絡げ」と書くだの、はほとんど無自覚である。さらに、「十」を「じっ」と発音するのも、こういう熟語ならではの芸当で、最近は「じゅっ」と読む方が優勢のようである。
 それはさておき、今朝の朝刊で、いい言葉を見つけた。
 「今どきの若者は」の後にはあまり感心できない言葉が続くものですが、私の母は「今の若い子でもええ子多いで」が口癖。日ごろから「世の中、悪い人なんかおれへん。みんなええ人ばっかりや」と言っているので若者に対しても同様のようです。
(『毎日新聞』2000年11月14日朝刊13面「女の気持ち」欄、奈良県 梅谷紀子 33 公務員「今どきの若者の中にも」)
 「若者」「コギャル」「女子高生」「17歳」など、ある一定の特徴を共有する人に対して一つのラベルを貼る。また、その人の身体的な特徴を名付けて、「茶髪」「ピアス」「ガングロ」などと名付ける。
 こういった言葉は、その特徴を名付けたものであるはずなのに、使っているうちに、一定のマイナスイメージを帯びてきて、ある人がその特徴を一つでも持っていると、全部、それにあてはまるといった錯覚・誤解を生むことになる。味噌もくそも一緒くたにする発想。玉石混淆のものをひとまとめにすること。木を見て森を見ない観察。
 「若者」は、年齢的に若い人を指す。ところが、言葉を乱す者、傍若無人な振る舞いをする者、一般成人には理解不能の人種、といったイメージを与えられることがある。これは、一を聞いて十を知る、の誤解、拡大解釈、過剰般化である。十把一絡げにして見えてくるものと、見逃すこととがある。
 いろんな若者がいることは、頭では分かっているつもりである。しかし、「若者」という言葉を聞くと、つい、マイナスイメージのほうに引き寄せられて、その色眼鏡で見ることになる。個々の若者はたまったものではない。
 人はみな、なんらかの社会的属性の規定を受けて存在している。しかし、それぞれに、個性的な存在でもある。この両方のバランスをうまく取って一人ひとりの人物を見るには、訓練が要るのではないかと思う。
 今朝のこの記事は、十把一絡げ的な物の見方の得失・功罪を考えるきっかけとなった。

十把一絡げ ─ むささびとびのしんの身辺雑記 2000年11月14日

 こういう、価値判断的な先入観を含んだ集団的な属性を現す概念を、私などはカタカナ語(?)で「ステレオタイプ」と呼んでしまうのですが、ともあれこうした概念は、それを誰かに適用することで、その対象の“本質”について何となく十分に説明されたような気になってしまい、対象についてそれ以上深く知る必要をあまり感じなくなってしまうという弊害を持っています。とはいえ、認識においても記憶力においても限りある身の人間には、ありとあらゆる事象すべてをその個別性のみにおいて把握するなんてことは不可能なので、社会生活の中で不特定多数の人間との交渉の可能性のある人間は、どこかでこうしたステレオタイプに流れがちな属性を援用せざるを得なくなります。言葉を使って認識を拡大してきた社会的動物ならではのジレンマと言うべきでしょうか。