「救世主フリット」の像

 今さらながら『機動戦士ガンダムAGE』について、ちょっと思いついたことを書いておく。

 放送中に視聴者からさんざん批判されまくったこの作品だが、最終回のラストシーンもやはりツッコミの対象となった。作中でひたすら敵ヴェイガンの殲滅を目指して妥協なき戦争を継続していた「復讐鬼」フリット・アスノが、死後銅像を建てられて顕彰されるところで物語が終わったのだ。ちなみに最終回放送直前に発売されたRPG版の『ガンダムAGE』もやはり銅像エンドだったらしい。作中のフリットが必ずしも「英雄」的な描かれ方をされていないことを踏まえるなら、この「銅像エンド」は単純に物語としてだけでなく、他ならぬ『ガンダムAGE』自体のそれまでの展開に照らし合わせても、かなり違和感を覚えさせるところではないかと思うし、現実にかなりの揶揄の対象となっている。
 ただ、違和感というところで一つ考えておきたいのは、「これは本当に物語構成の稚拙さだけに由来するものなのか?」ということだ。この銅像エンドは、単に視聴者に対してフリットを「英雄」や「救世主」として提示したいという目的ではなく、アイロニー込みの演出意図があったように私には思える。

 

 話題を少し変える。
 先日久しぶりに、過去の2ちゃんねる・モナー板およびAA長編板で書き込みされていたAA(アスキーアート)ネタを、懐古気分でちょっと眺めていた。今ではすっかり廃れてしまったが、十年ほど前の2ちゃんねるでは「モナー」や「ギコ猫」などといったAAキャラを使った遊びが流行っていて、専用の「板」も設置されていた(今でも存在するが、当時の隆盛の面影はもはや無い)。当初はAAキャラのコピー&ペーストを使ったり、そこに自分なりにアレンジを加えて、ちょっとしたお絵描きの遣り取りをするのが主流だったが、やがてAAキャラを用いたストーリー漫画風の書き込みも見られるようになっていった。
 当時よく使用された定番AAキャラの一つに、「しぃ」というメス猫風のキャラがある。ストーリーAAでは女性キャラとしてよく利用されていたが、AA遊びが盛んになってしばらく経った頃に「虐殺・虐待」ネタが幅を利かせるようになり、それらのネタの中で「しぃ」は殺されたり虐待を受ける側のキャラとしても多用されるようになった。このあたりの経緯については、ニコニコ大百科の「しぃ」の項目(単語記事)で、キャラそのものだけでなく当時の2ちゃんねるにおけるAAネタの変遷についても非常に詳しく解説されている。
 こうした流れの中で、虐待された後の「しぃ」の表現として「でぃ」という派生キャラが生まれ、さらにはこの「でぃ」を主役にしたストーリーAAのシリーズとして、虐待されて体がボロボロになり知能も低下した「でぃ」が、遥か東の方にあると噂される楽園を目指してひたすら放浪の旅をするという趣旨の、「でぃちゃん死出の旅」という人気スレッドが生まれた。
 その後、今度はやたら勝気で腕っ節の強い「しぃ」が田舎の小学校の先生をするという「山奥のしぃ先生」というストーリーAAのシリーズがまた人気を博したのだが、この作中で「でぃちゃん死出の旅」の設定がオマージュ的に引用されているエピソードがあり(『エデン・イン・ザ・イースト』)、「でぃちゃん死出の旅」との直接的なストーリーのつながりはないが、「でぃ」が東の楽園に行くという伝承がおとぎ話の『東の聖女』として語り伝えられているという作中設定になっている。この「山奥のしぃ先生」では、普通の知性を持った男性教師キャラとしての役割で「でぃ」も登場しており、彼は自分が子供のころからただ外見だけによってだけ周囲の人々から評価され、事故によって自分の外見が「でぃ」になってからは伝承の「東の聖女」を投影され続けることに疲れきっていた。
 そんな彼に対して、「しぃ先生」はこんなことを言っている。

東を目指すでぃのあのお話って…、あとから美化され、脚色された部分が、実はけっこうあるんですって。グリム童話とかもそうだけど、原本は、それこそPTAが顔をしかめる様な表現も多かったらしいの。
…本当にあった、って言っても、もう300年以上前の話だからね…、そういうのって、仕方ないのかもしれないわ…。
(略)
だからあたしは… 『東の聖女』なんて、本当はいなかったんじゃないかって思ってる。…いたのは、ただ毎日を生き延びるのに必死だっただけの、一人のでぃなんじゃなかったのか、って…
(略)

(…過去は、決して変わらない…
 ……けれど……
 …決まって、後から歪められる。
 後の世に生きる人々にとって、勝手都合のいい様に。)

『エデン・イン・ザ・イースト Ⅲ』

 歴史学や民俗学・神話学などでは、神話や民間伝承で語られる出来事を、過去に実際にあった出来事や世相の形を変えた反映として捉え、実際にあったと想定されるその「古層」を再構成するという研究アプローチも存在するが、いずれにせよ過去の話は人伝えに伝承されていくうちに変形を被ることがしばしばあり、特に文書等の外形的テクストとして固定されていないものについては、その傾向が甚だしい。それゆえ、実際にその出来事が発生した時には単に日常の中を生きる人間であった存在が、後世に語り継がれた時にはやたら巨大な神話的人物になってしまうこともあり得る。

 ……ここまで書くと気付かれる方も多いと思うが、私が久しぶりにこの「山奥のしぃ先生」を読み返していて思い出したのが、『ガンダムAGE』における「救世主フリット」の銅像のことだった。
 作中のフリットは決して聖人君子として描かれてなどいない。それどころか、頑固で融通があまり利かず、しばしば独断的に行動してしまう人物としての側面が強調されている。最終的に地球とヴェイガンの両方を救った「救世主」として扱われてはいるものの、それまでの過程はヴェイガンへの徹底的な報復を強硬に唱え続ける「復讐鬼」の姿として、作品の大半の描写が徹底されている。
 だからこそ、最終回の銅像には皆が戸惑ったわけなのだが、それまでの作中描写と照らし合わせて考えるなら、このギャップはむしろ意図的に作品に持ち込まれたものと考えるべきではないだろうか。最終回ではまだアセムやキオが生きているから、少なくともアセムよりも後の世代では、フリットの人となりを実際に見聞きしている者もそれなりに生存しているだろうが、この時点で既に子供時代のフリットを知る「生き証人」は恐らくほとんどいないだろう。やがて時が経ってアセムやキオの世代も次々に世を去っていき、生きている人間としてフリットに接したことのある者が誰もいなくなったら、あまり救世主らしからぬフリットの実像を語れる者はもはや世界のどこにもいなくなり、ただ銅像と「救世主」の称号だけがフリットを示すものとして残ることになる。ボロボロで知能も低下してただひたすら本能に導かれるかのように東の楽園を目指しつつ必死に生きてきた子猫の実像を知る者がいなくなり、ただ「東の聖女」としてのみ語り継がれる「でぃ」のように。

 フリットが「救世主」として立つに至った過程を知る者がいなくなったら、果たしてフリットの道行きは後世の人々にどう理解されるのだろうか。コロニー「オーヴァン」襲撃によって母マリナ・アスノが犠牲になったことくらいは知られているかもしれないが、マリナと同じかそれ以上の重みをもってフリットの復讐人生の契機となったユリン・ルシェルの存在については、もしかしたら後世の人が知ることはないかもしれない。フリットと同時代を彼の側で共に生きるという擬似体験をしてきた視聴者は、ユリンの存在がフリットにとっていかに大きかったかを知っているが、銅像や限られた史料のみでフリットを知るAGE世界の後世の人々は、視聴者が知っているのと同じような、一人の少女によって人生全体に渡る深い影響を受けた人間としての「フリット・アスノ」を知る機会を、永遠に持てないかもしれないのだ。
 実は作中の描写をよく見ると、キオの時点で既に、少年フリットの実像は幾分か見過ごされていることがわかる。最終回のラ・グラミス戦で、フリットがヴェイガンへの復讐を断念して、地球連邦軍とヴェイガンの双方に対してヴェイガン本拠地「セカンドムーン」を救うことを呼びかけた時、キオは「じいちゃんはなれたんだね、みんなを救える本当の救世主に」と言っている。つまり「救世主=フリット」だ。
 ところが物語の最初の時点では、フリットは自分自身が救世主になるなどとはまったく言っていない。第1話のサブタイトルは「救世主フリット」ではなく「救世主ガンダム」であり、この回の中でフリットの台詞には、「僕が生み出してみせる、伝説の救世主『ガンダム』を」、エミリーとの会話における「だからフリットが作るモビルスーツの名前はガンダムなんだね」「そう、救世主の名前だよ」など、明らかに自分ではなく自分が作るモビルスーツこそが救世主であるという認識を明言している。
 第3話でのブルーザーの回想シーンでも、
「救世主だと?」
「はい、僕が作るガンダムは、人類の平和を脅かす悪と戦う戦士なんです。だから人類を守る救世主なんです」
「はっはっは、モビルスーツが救世主か。おまえは面白いことを言う」
という、もっと小さい頃のフリットとの遣り取りがある。
 恐らくブルーザーにとって、「救世主」という属人的なイメージの強い表現を兵器に当てはめるのは少々不自然な捉え方であり、一方でフリットにとっての「救世主」の原風景はアスノ家の肖像画に描かれた伝説のモビルスーツ「ガンダム」の姿であるため、モビルスーツ鍛冶の卵でもあるフリットは、モビルスーツという兵器を「救世主」と認識することにさほど困難を覚えなかったのだろう。
 とはいえ、フリットを取り巻く人々の間では、最初から「救世主」認識のズレが見られる。第1話で初出撃するガンダムを見送るバルガスは、「救世主になれ、ガンダムと共に」と、明らかに「救世主=フリットの未来」と捉えた台詞を発しており、またフリット自身の口から「モビルスーツが救世主」であることを聞いているはずのブルーザーも、死の直前に「救世主になれ、フリット……ガンダムと共に」と言っている。「救世主」という表現の属人的なイメージのほうが、意識の中でどうしても先行してしまったのかもしれない。
 そして、フリット自身が自らを「救世主(を目指すべき者)」と捉えるようになる決定的な変化は、フリット編の最終エピソードに当たる15話で見られる。アンバット攻略戦が終結した後、ユリンを守れなかった自分を深く責めるフリットは、ガンダムを見上げながら「なるんだ……UEを倒して、僕が救世主になる!」と叫ぶのだ。ガンダムではなく、自分自身が。
 ……こうした変遷のニュアンスが、最終回のキオの台詞からは見事に抜け落ちており、あたかも最初からフリットが「自分が救世主になる」ことを目指していたかのように語られている。同時代の大人ですら必ずしも捉えきれなかったことだからやむを得ないのかもしれないが、恐らく後世の人々にとっては、最初から救世主になることを目指していたかのようなキオの認識のほうが、フリット・アスノの「正史」として残り続けるのだろう。
 同時にこれは、アスノ家に伝わる「伝説の救世主ガンダム」もまたその実像が誰にも知られていないという事情と、パラレルな関係にあるように思う。過去に存在はしたが、その実像が誰にも知られていない、肖像画の中だけに残る「救世主ガンダム」。古の「救世主ガンダム」を、その実情がよくわからないままに継承したフリットは、やがて自分自身が「救世主フリット」の銅像として、個々の人間の生命よりも長く残り続けることになった。恐らくこの銅像によって後世の人々がイメージするフリット像は、フリット自身の自己イメージとも、実際に生きているフリットと共に人生を送ってきた同時代の周囲の人々のフリット像とも、違ったものになるだろう。かつてフリットが、自分ではなく自分の作るモビルスーツのほうを「救世主」として捉えていたことなど、誰一人知らないようになるかもしれない(何しろ同時代で直接接していた大人たちですら見落としているのだから)。