古代史とか

 日本古代史をサカナにして何かを語ろうとすると、特にネット上ではいろいろ面倒な論争に巻き込まれることがある。もともと史料が乏しい時代なので、史料と史料の隙間を論者の推論によって組み立てる部分が多めになり、いきおい論者の史観が強く出るからだろう。もちろん史観を排してもっぱら史料のみについて語ることも可能なのだが、この視点に立つと考古学や文献講読から「歴史」に話を接続することが不可能になり、しかも厄介なことに非アカデミックな大衆の大半(私もこちらに入る)は「考古学」や「文献講読」より「歴史」のほうが好きなのだ。しかもこの「歴史」が単純に昔のことだけでなく、いま現在の政治的アイデンティティを巡る話に直結してしまうと、なおさら論者の価値観を剥き出しにした「神々の闘争」(ウェーバー)に陥ってしまう。
 先ほどまで読んでいた梅原猛『葬られた王朝 ─ 古代出雲の謎を解く』(新潮文庫)も、そういう「“史観”として歴史」を強く感じさせる一冊で、それ故に評価も毀誉褒貶さまざまに分かれているようだ。専門に研究している人でもない限り、この手の本はあくまでも酒の席のヨタ話のネタ程度にしておいて、間違っても真剣に議論を戦わせる材料なんかにすべきではないのかもしれない。真剣になればなるほどその語りの中には必ず、語り手も気付かぬうちに「“史観”としての歴史」が入り込み、史料を巡る認識や解釈ではなく互いの「価値観」のほうが議論の主役にのし上がってしまう。