母と娘とぬいぐるみ ~ SEEDからAGEへの名状しがたいバトンのようなもの

コズミック・イラ70。『血のバレンタイン』の悲劇によって、地球・プラント間の緊張は一気に本格的武力衝突へと発展した。誰もが疑わなかった、数で勝る地球軍の勝利。が、当初の予測は大きく裏切られ、戦局は疲弊したまま、既に11ヶ月が過ぎようとしていた。」
 ……『機動戦士ガンダムSEED』の序盤で、時々こういう状況説明のナレーションがアバンタイトルに流れていた。第7話『宇宙の傷跡』の回では、この「血のバレンタイン」がどういう事件であったかが具体的に描写されている。
f:id:hash_ayabe:20130817132854j:plain  ザフト軍の追尾を逃れて何とか友軍の庇護を求めようと彷徨する孤立無援の戦艦「アークエンジェル」は、物資の補給もままならない状況で、デブリ帯の残骸群から当面最も必要な水の補給を得ようとする。だがデブリ帯の中でアークエンジェルが遭遇したのは、そもそもこの戦争の発端となった「血のバレンタイン」の悲劇の舞台である、プラント側の農業コロニー「ユニウスセブン」の残骸であった。24万3,721人の死者と共に浮遊する残骸であるが、それでもアークエンジェル乗員が生き残るためには、ここから凍結したコロニーの水を補給しなければならない。彼等は折り紙を折って、ささやかながらせめてもの追悼の「儀式」を行う。この時プラント側でも「血のバレンタイン」から一年を経てユニウスセブン追悼式典の準備が大々的に進められており、アークエンジェルの水補給のエピソードはこのプラント側の動静と並行・対比した形で描かれている。
 このささやかな儀式の中で、主人公キラ・ヤマトの乗るエールストライクがじっと佇んでいる様子が、私には印象的だった。ただでさえ宙を飛びまわるのが当たり前のSEEDモビルスーツ群の中でも、エールストライクは特に「空飛んでナンボ」の印象が強く、陸地に足をつけているより空を飛んでいるのがずっと自然な存在ですらある。そのエールストライクが、起動してパイロットも乗っているにも関わらず、ただ直立不動でじっと立っているという状態に、ふだんにも増して強い無力感が強調されているように感じられたものだ。
 生きているアークエンジェルの仲間たちを何とか生きながらえさせるために、作中のキラは他人との殺し合いなんてまったく御免こうむりたいにも関わらず、巨大な兵器に乗って必死に戦い、かつての親友とも刃を交えざるを得ない状況に追い込まれていく。こうした過程を経て次第に鬱屈していくキラの心情は、華麗に飛び回るエールストライクとの印象的な対比にもなっているのだが、そんなキラやエールストライクですら、既に死んでしまった人たちの前ではもはやただ佇むしかない。

 

 ところで、このユニウスセブン跡地の描写では悲劇を象徴する絵として、残骸の中に探索に入ったアークエンジェルのクルーが母子の死体と破れたぬいぐるみを発見して悲鳴を上げるというシーンが入っている。
f:id:hash_ayabe:20130817133053j:plain 実は先日『機動戦士ガンダムAGE』の序盤を見返していて、これによく似た構図を見かけた。第2話『AGEの力』から第3話『ゆがむコロニー』にかけての展開では、主人公フリット・アスノが住んでいたコロニー「ノーラ」が謎の敵UEの攻撃によって崩壊の危機に直面し、急遽新造戦艦「ディーヴァ」を乗っ取ったノーラ(アリンストン基地)警備隊の連邦軍が、コロニー住民を救い出すために奮闘する様子が描かれている。
 そのコロニー住民の中に、「母と娘とクマのぬいぐるみ」がいたのだ。コロニー内で指示に従い避難するところ、避難場所であるコロニーコアの中に入ったところ、そしてディーヴァに牽引誘導され間一髪崩壊から逃れたコロニーコアの中で、崩壊する「ノーラ」本体を見守るところという、三ヶ所のシーンで同じ親子の姿が描かれている。
 もちろん、ノーラの親子とユニウスセブンの親子はそもそも同一人物であるはずはない。また、「母と娘とぬいぐるみ」という組み合わせは、戦火に翻弄される無力な一般市民の表現として、私の想像以上に手垢に塗れた類型的な“記号”として定着しているようなものなのかもしれない。ただ、私はここに何となく偶然の一致以上の、何かしら積極的な「意図」を読み込んでみたくなる。10年前のC.E.年代に誰も救うことが出来なかった人々を、それから10年後のA.G.年代のフリットやディーヴァクルーの人々は何とか救いだすことに成功した……と“解釈”してみたくなる。
 先人が救えなかった戦争による犠牲者については、もちろんその人たち自身を生き返らせることなど出来ないが、でも「歴史から学ぶ」とは、そうした人々の後に続いてしまうような運命を少しでも減らすことにあるんじゃないか。SEEDから十年後に製作されたAGEでは、先人に敬意を払いつつも同じ轍を踏まないという「歴史」との付き合い方を、こういう形で過去作からバトンを受け継ぎながら描こうとしていたのかもしれない(同時にフリットという「半分受け継ぎ損ねた」人物像を配してもいる)。そんな姿勢を、こうした軽いオマージュらしき描写から何となく感じ取れるような気もする。