もっと苦しめ……?

 皮肉な話だけど、これって西洋学問受容の歴史の中でもちょっと違う形で見られたパターンかもしれない。外来のものを無駄に「偉そう」に見せることでかえってハードルを高くしちゃう行為。
 以前にヘーゲル研究の長谷川宏さんが、ヘーゲルはもともと平易な言葉で分かりやすく講義する人なのに、明治以降に西洋哲学を輸入した人たちはやたら晦渋な漢語風の訳語を作り出して、いかにも「偉そう」な雰囲気を作っちゃった、みたいなことを言っていた。あと、これは長谷川さんだったかどうか忘れたけど、もともと哲学で使用される語彙は日常で普通に使われる単語と共通のものが多いはずなのに、邦訳されるといきなり日常では絶対にみかけない難しそうな造語が多用される、なんて話もあった。
 どんなことでも新しく物事を知るにはある程度の修練が必要だけど、不必要に「俺のいる高みまで上ってこい」みたいな“精神論”をやりたくなる人が多いのかな。俺は貴様らが楽して遊んでいる間に苦労してここまで上ってきた、さあ今度は貴様らが苦労する番だ、もっと苦しめ……みたいな。