君が望む永遠

 先日、2003年に放送された『君が望む永遠』というアニメを見ていました。同名のアダルト向け美少女恋愛ゲーム(いわゆるエロゲー)を原作とした作品ですが、自分一人ではどうにもならない板挟みの運命に翻弄され苦悩する四人の若者の心の移り行きが繊細に描かれていて、素直にいい作品だったと思います。
 孝之・水月・遙・慎二は高校三年の仲良し四人組。やがて孝之と遙は付き合うようになり、水月と慎二は不器用な二人をもどかしく思いながらも見守っていたのですが、遙が突然の交通事故に遭って昏睡状態に陥り、そのまま3年の歳月が経ってしまいます。遙が眠っている間に他の三人の人生はどんどん移り変わっており、いろんな経緯の末に孝之は今では水月と付き合うようになっていましたが、そこで遙の意識が戻り……とダイジェストで紹介すると、なんだかありがちなメロドラマのような感じになってしまいますが、実際ストーリーの骨格だけを取りだすならば、運命に翻弄される三角関係を描いたメロドラマそのものではあります。
 通常、恋愛ゲームでは複数のヒロインが主人公=プレイヤーの恋愛対象として登場し、どのヒロインとの恋を成就させるか(またはさせないか)によってストーリーが分岐するような仕組みになっており、そのようなマルチエンディング型のゲームをアニメ化する場合には、複数のシナリオの流れを混合させつつも基本的にはどれか一つのエンディングが、単一の物語の締め括りとして選択されることになります。『君が望む永遠』もこれと同様で、ゲームでは「水月エンド」と呼ばれる流れが、アニメの物語の基軸に選ばれたようです。ただし他のヒロインが決して“不幸”というわけではなく、むしろ私の目にはアニメ版の「水月エンド」の流れが、かえって“遙の物語”を最も美しく完成させているように見えました。

 第一話、とりあえず付き合い始めた孝之と遙が一度ぎくしゃくしてしまい、遙を傷つけてしまったことを後悔した孝之が改めて「今さらだけど、時間を戻せるならやりなおしたい」と言い出したのに対して、遙がこう言っています。

いやです、やっとその言葉が聞けたのに、時間を戻すなんて絶対いや。
たとえどんな時間でも、私にとっては大切なの。だから戻すなんて絶対いや。

 悪くは無いけどありがちな台詞かな……と思いきや、全体を通して見ると、実は紆余曲折を経た果てに再びこの“場所”に戻ってくる流れが、『君望』の物語構造の軸には据えられています。この後の悲劇的な事故とそれ以降の迷走を経て、最後には「どんなに辛いことがあっても決して時間を戻さず、引き受けて前に進む」という姿勢に戻ることで、一度バラバラになった四人の絆がようやくつながれるのです。ハッキリと四人の再会が描写されるわけではありませんが、明らかに“喜ばしき再開”に向けた希望を持たせる作中描写になっています。
(蛇足ですが、『君望』の根本的なテーマ性はあの『仮面ライダー電王』とも共通しているんじゃないかと私は考えております。オープニング曲「Climax Jump」の歌詞を借りれば「昨日までの記憶すべて 必要と分かる日が来るはず」といったところでしょうか)

 上記の再告白を経て、ようやく孝之と遙が本格的に付き合い始めた頃、遙が言いだした「おまじない」もまた然り。

夜空に星が瞬くように 溶けた心は離れない
例えこの手が離れても 二人がそれを忘れぬ限り

 この「おまじない」は後にもう一度登場しますが、その時には3年の月日を隔てた二人の心が決定的にすれ違ってしまったことを暗示する、やや痛々しい描写として現れます。タイトルの「君が望む永遠」も直接にはここにかかってくるのだろうと思いますが、これも作品を最後まで見ていくと、最後にいつの日か訪れる再会への希望が描かれたことによって、また印象が変わってきます。「溶けた心」や、望まれた「永遠」は、時を経ても全く変化しない永遠不変の固定化されたものから、時とともに形を変化させながらも互いを信じることによって常に紡がれ続けていく過程としての絆という意味合いへと、作中で次第に変化していたのではないでしょうか。

 上記の電王以外に、この作品からもう一つ連想した別の作品として、『超時空要塞マクロス』の劇場版「愛・おぼえていますか」があります。とはいえ、こちらは三角関係のメロドラマという形式的な類似なので、昼ドラあたりを探せば他にもたくさんあるのでしょう。三角関係のもつれの末に一つの恋を終わらせ、さらに大きな歌手へとステップアップしていくミンメイの姿が、最後に絵本作家として一人立ちしていこうとする遙の姿にもちょっとオーバーラップします。