ユートピア小説の中の秘密情報機関?

 晩年のフランシス・ベーコンが書きかけていた未完の小説『ニュー・アトランティス』は、大航海時代と相次ぐ地理的発見からインスピレーションを受けつつ、ルネサンス以降の新しい時代精神を反映して、当時のヨーロッパとは異なった形で構築された理想的な架空世界を描く異世界探訪譚であり、トマス・モアの『ユートピア』やカンパネッラ『太陽の都』と共通したモチーフが軸になっている。
 太平洋で遭難しかけた探険船が未知の土地に漂着し、未だヨーロッパには知られていない理想的な文明社会「ベンサレム」の様子に船員が次々に驚愕する。ベンサレムでは遥か昔に奇跡的な方法で伝えられたキリスト教が信仰されており、一方では「サロモンの家」または「六日創造学院」と呼ばれる総合的な学府で、広範囲の学問分野に渡った実用的な研究開発が行われ、高度な文明社会の基礎となっている(ベーコンの理想的学問像がここに反映されている)。
 一方で、ヨーロッパとずっと没交渉だった割には、ベンサレムの人々は現在のヨーロッパ事情についてもある程度通じており、漂着した船員がそのことを疑問に思うと、ベンサレムがヨーロッパに知られていなかった理由として同国が一種の鎖国政策を取っていたという説明が為され、同時にヨーロッパやその他の世界の最新事情を知るために、ベンサレムからは密かに身元を隠した人々が外界に送りだされているという説明が現地の案内者によって行われる。

「……王が全国民に王国外の地域に渡航することを禁止された際、次のような布告を併せて発せられました。十二年ごとに、わが王国から二艘の船を航海に出す、それぞれに「サロモンの家」の「会員」ないしは「兄弟」三人の派遣団を乗せ、目的国の国情、民情、または特に全世界の学問、芸術、工業、発明に関する知識を集め、あらゆる種類の書籍、道具、見本を持ち帰らせる。船は「兄弟」を上陸させた後、すぐに帰国し、「兄弟」は次の派遣団がくるまで滞在する、といった制度です。(略)さて、船が目的地に到着したとき、一般の船員が、どのようにして正体を見破られないようにするのか、上陸し、滞在しなければならない者が、どのようにして別の国の人になりすますことができるのか、これらの航海の目的地は、どのようにして決められるのか、どんな所が新しい派遣員と落ち合う場所として使われるのか等々、実際的な細かい事情については、私からは申し上げられませんし、またあなた方が知りたいと思っておられる所でもありますまい。しかしこれでおわかりでしょう、私どもは金銀、宝石の類や、絹、香料、その他いかなる物質的な品のためではなく、ただ神が最初に創造されたもの、すなわち「光」を求めて、世界各地に育つ「光」を得るために、通商を行っているのです」。

フランシス・ベーコン『ニュー・アトランティス』川西進訳、岩波文庫、2003年、p.35-36)
 「サロモンの家」の研究員の個々の職務に関しては、他国人の名を名乗り(わが国の国籍は隠す故に)諸外国に渡り、外国で行われている実験に関する書籍、要約、模型を持ち帰る者が十二名。彼らをわれわれは「光の商人」と呼ぶ。
 書籍に記された実験をすべて収集する者が三名。彼らを「収奪者」と呼ぶ。
 ……

(p.63)

 ベンサレムの秘密主義は同国の歴史的な経緯に基づくものであるという作中の説明はあるのだが、実際に書かれている内容が偽装した身分による情報収集や秘密の連絡場所など、まるでスパイの行動そのものであるのにちょっと驚いた。収集している内容が主に科学技術上の成果であることや、旧約聖書由来の「サロモンの家」という名前のせいもあって、この描写から私が連想したのは、イスラエル(古代ではなく現代のほう)が核兵器開発のための技術情報収集や秘密裏の核物質調達などを行う時の活動拠点となっていた、科学技術専門の秘密情報機関「ラカム」だった。