きれいなダロス、混沌のダロス

「世界初のOVA」として、1983年から84年にかけてリリースされた『ダロス』を見た。
 スタッフクレジットでは鳥海永行氏と押井守氏の名前がそれぞれ「原作」と「監督」に分かれているが、実際には全4話(ビデオ4巻)の中で監督を分担していたらしい。ネット上で見られる感想を見ると(古いマイナー作品だけあってあまり多くはないが)、監督の違いによる作風の相違についてよく触れられているようだが、そういう事前知識を見ずに一通り見ていた感じでは、さして気になるほどのものではなかった。言われてみれば確かにアクションの多寡や見せ方の違いはエピソード毎にあるものの、約2時間の尺を持つストーリーの中で流れに緩急がつくのは当たり前のことであり、むしろ展開に適度な膨らみや広がりが生まれて結果的にはよかったのではないかと思う。もっとも、レンタルビデオなどほとんど存在しなかった当時のOVAは、高価なセルビデオとして作品を(文字通り)“売る”しかないわけで、その状況の中で見ている側の持つ期待と実作品とのすれ違いや落差が一巻ごとに大きくぶれるとなれば、消費者に二の足を踏まれる恐れというのはあったかもしれない。
 ストーリーは21世紀の月面開拓地における植民労働者(ルナリアン)の反乱を描いたSFものであり、反乱が「支配者に対する労働者の闘争」として描かれているあたりにいかにも押井氏の好きそうな方向性が感じられる。ただし、単純に敵味方に分かれた“階級闘争”のみを追うのではなく、開拓民の側にも支配者たる統轄局の側にも、その内部でそれぞれ立場や意見の相違がある。そもそも主人公もまた物語の中で単純に何らかの立場的主張に身を投じているわけではなく、反乱の中でさまざまに迷いながら、自分の道を見出そうと動いていく。この点でで主人公の視点と視聴者視点とは基本的に一致しており、やや込み入った構図であるにもかかわらず物語の流れは追いやすくなっている。
 映像面ではとにかく動きの良いアクションが堪能できる。戦闘シーンで使用される銃器はビーム的なものではなく火薬を使用したものであり、銃から飛び出た薬莢が月面の軽い重力のせいでそのまま高く舞い上がるなど、細かいところで注意を引かれる演出ポイントがたくさんある。反乱分子を追う統轄局がメカだけでなく警察犬(むしろ軍用犬と呼ぶべきか)を多用しているのも、SFとしては変わっていて面白い。やはり犬好きな押井氏の方針だろうか。全般的に精緻かつ美しい絵でよく動くアクションは見ていて心地よく、製作から四半世紀以上を経た今見ても惚れ惚れするものがある。
 一方で個人的にちょっと気になったのは、恵まれていないはずのルナリアン鉱山労働者の生活描写がちょっときれいすぎるところだろうか。警官に「カスバみたいな場所」と表現された採掘労働者の居住区「レベル3」は、台詞で言うほど場末っぽくは見えず、質素ながらも普通に健康で文化的な生活を送れているように見えてしまう。真空中や地底深くでの鉱山行動の肉体的なきつさや、全労働者が番号のみで追跡管理されて死ねば死体も残らない生き方の絶望感というものは、確かに頭ではわかるんだけど、その頭ではわかる部分を演出の中で“絵として”説得力を持って落とし込むところがちょっと弱い。そのために、ドグたち反乱者の主張の説得力や、“でも、やるんだよ”といった感じで日々の労働の重みを背負っていくルナリアンの迫力までが弱まっているように見えた。へんな比較だが、先日ユネスコの「世界記録遺産」に登録された山本作兵衛の炭鉱画のほうが、ずっと素朴な絵柄の静画であるにも関わらず、「採掘労働がどれだけきついか」を示す上ではずっと説得力を持っているように見える。SF的な世界観の中でそういうのを表現するのが難しいというのはわかるんだけど、もうちょっと(プラモデルと似た意味での)“汚し”があったほうがよかったんじゃないだろうか。

 タイトルにもなっている謎の遺跡「ダロス」は、それほど歴史の深い遺跡ではないが、古い開拓民からは信仰の対象とされている“神”であり、自己増殖する自生的秩序のメカニズムであり(90年代ならさしずめ「オートポイエーシス」と評されただろう)、最後には防衛システムによって反乱劇の双方の側を無差別に攻撃し無力化して、物語を強制的に終了させてしまった存在。見ている側にとってもそうだが、作中の登場人物にとってもダロスはわかりにくい存在である。
 でも、わかりにくい存在であること自体が、実はダロスの意味そのものなのではないかと私には思える。
 ダロスの「正体」を知っているものは最後まで誰も登場しないが、古いルナリアンは月面生活の苦闘の中でいつのまにか(それこそ“自生的秩序”の生成として)ダロスを神のような信仰の象徴として見上げるようになり、新しい世代のルナリアンや地球から新たに着任した統轄局司令官の シャア大佐 アレックスは、当面の役に立つようには見えないが故にダロス信仰を無意味なものとして切り捨てる。一方、信じるにせよ切り捨てるにせよ、そんな人間たちの思惑とは無関係に、ダロスはただ“それ自体のために”自律的に活動しているように見える。その活動は不可解であり、ルナリアンや地球の立場から理論的に整序された形できれいにまとめられた因果的モデルなどによって記述されるようなものではない。地球(およびその代理人としての統轄局)と月面開拓民との対立が、言葉で言うほどには決して観念的にきれいに分かたれるものではなく、開拓民を含めたそれぞれの人生の積み重ねによって一目では見通せない複雑怪奇な連関を形作っていることを、作中の人物にとってのダロスの不可解さは象徴しているのではないだろうか。