三日限りの掟

『戦闘メカ・ザブングル』の最後のあたりを見返していた。大まかな筋立ては何となく覚えていたけれど、だいぶ昔に見たきりなので細かいところはすっかり忘れていた。
 イノセントとシビリアンの最後の決戦で、イノセント最後の根拠地・ポイントXに突入しようとするジロンの前に、最後までイノセントに協力していたティンプが立ちはだかる。この時、ティンプが自分を敗北に追い込んだジロンを執拗に倒そうとするのに対して、ジロンは作戦の邪魔になるからととにかくティンプを追い払おうとする。
 この二人の対峙は、本筋にあまり絡まないところなのでほんの少し描かれるだけなんだけど、物語の一番最初と比べると、「追う側」と「追われる側」の立場が見事に逆転している。親の仇ティンプをつけ狙うジロンと、そこから逃げ回るティンプというのが一番最初の構図だった。最初の構図でのジロンは、物語の舞台となっている惑星ゾラ(未来の地球)のシビリアンの間で一般的なルールとなっている「三日限りの掟」を無視し、いつまでもどこまでも親の仇たるティンプを追い詰めようとしていた。周囲の誰もがこのジロンの「掟破り」に呆れるが、結局のところこのジロンの執拗な意志こそが、最終的にはイノセントによる支配体制全体を覆すところにまで行きついてしまう。
 最初に見た時にはよくわからなかったけれど、今思えばこの「三日限りの掟」というのは、イノセントとシビリアンの非対称的な支配-被支配関係を永続化させるための心理的な仕掛けとして、上手い設定だと思う。どんな社会でも、自らを改良しよりよい社会へ進化させようとする時には、既存の状況の中に「解決されるべき問題」を見出だし、その問題を解決する方向を模索するというアプローチが行われる。時としてこの問題は「責任」という側面で捉えられることもある。だが、いかなる問題についても、その問題の原因となる「責任を負うべき者」への追及が三日限りで無効になってしまうのであれば、誰も三日以上前の事象について問いを立てる者はいなくなる。人々の生き方は刹那的になり、ただ目の前のことだけを集中して考えるという態度が一般的になる。
 被支配者層たるシビリアンが長期的な視野を持てなくなるということ、それ故に原因を遡って追及してイノセントによる支配の問題点にまで辿り着くものなどいなくなるということ。これが支配者層たるイノセントにとっての「三日限りの掟」のメリットだ。
 ジロンの「掟破り」とは、紆余曲折はあったが最終的にはこの支配関係そのものに対する疑義をつきつけることになった。最後にティンプを前にしても復讐のことなどまるで考えなかったジロンは、既にそういう域にまで達していたのだ。対するティンプは、イノセントの雇われアウトローという立場を最初から最後まで脱却することがなかった。物語の最初と最後での立場の逆転は、経験によって変わらないティンプと経験によって変わっていったジロンとの対比でもあったのだ。
「三日限りの掟」を通じて互いに巧妙に分断され問いを封じられ、しかも分断され問いを考える思考の道筋を奪われていることにすら気付かぬままに(何しろ掟によって考える道筋が不可視になっているのだから)、ただ刹那的な生活を送るシビリアン。ティンプもまたそんな一人であった。ティンプというキャラは、一見高みに立って全てを見透かしているようでありながら、実は単なる現状追認者の一人であり、ジロンのように愚直に己の意志を貫くことで最終的に現状そのものをひっくり返すだけの認識と力を持つことはできなかった。黒幕っぽく見えて実際には単なる空虚な存在でしかなかったというのが、物語上でのティンプの存在意義(?)だったのだろう。曲がりなりにも自らの立場と意志からシビリアンの蜂起に抵抗したカシム達(最後まで敵対したイノセント)とも異なり、ティンプは本当に“びっくりするほど何もない”人間だ。皮肉なことに、アウトローとしてもっとも強く、それ故に惑星ゾラの世界ではもっとも自由な存在であるかのように見えるティンプは、実際には「三日限りの掟」に象徴される、内面化された刹那主義と現状追認志向から最後まで一歩も踏み出すことのなかった、非常に“不自由”な人間だったのだ。
 今にして思えば、『ザブングル』の世界観に見られる刹那的な世相とそれに対するアンチテーゼとしてのジロンの行動力という構図は、タコツボ化がどうとかポストモダン批判がどうとか歴史の忘却がどうとかといったこの十数年に語られてきた話題を、非常に早い時期に先取りしていたように見えなくもない。「今日という日はもうないが」、それでも人生と世界は明日やその先へとつながり、「いつかつぐなう時もある」のだ。三日限りで終わることなく。単なる深読みのしすぎかもしれないけどね。