技術合理性

社会学者や哲学者が原子力に終止符を打った 「原子力リスクの分析を技術者だけに任せてはいけない」と判断したドイツ人(中)(日経ビジネスONLINE 2011/9/2)

 第一次大戦のクレマンソー仏首相が言ったという「戦争は将軍に任せておくには重大すぎる」という言葉を連想する話だ。
 先日読んでいたマイネッケの本にも、こんな一節があった。

 ……参謀部において頂点に達するこのプロイセン-ドイツ的軍国主義が、最後までつねに自己の有能さを実証してきたにしても ── それはなんといっても、危険な一面性を通じて獲得された有能さであった。合理的な動機と非合理的な動機との均衡は、その場合破壊されていた。純粋に軍事的な効果が、思考と意欲の先頭に立っていた。軍事と戦争とは、自己目的となるべきではなく、どこまでも一民族全体の、しかもドイツ民族だけでなく諸民族からなる一家族の生活全体の内部における奉仕的機能でなくてはならぬ、ということは、理論的には、参謀部のきわめて賢明な連中には、おそらく承認されたであろうが、しかし実際には、参謀部的思考の背景にしりぞいてしまった。参謀部的思考には、政治的思考による必要な捕捉が欠けていたし、政治的思考もまた、諸民族の文化的生活全体と接触しながら動いているかぎりにおいてのみ、健全でありえたのである。
 生活全体のさまざまな関節のあいだのこのような接触や結合はいずれも、第一次世界大戦に先だつ数十年のあいだに、次第にゆるんでいった。このことを典型的に示すものは、有名なシュリーフェンの戦争計画である。すなわちこの計画は、純粋に戦術的な原理の異常な高まりとともに、軍隊のベルギー通過はいったいどのような政治的効果を生む可能性があるであろうか、またこの政治的結果がさきへさきへと作用を及ぼして、ついには軍事的にも形勢を変化させるようなことがありはすまいか、という問いを無視してしまった。理性人(ホモ・サピエンス)はここでもまた、工作人(ホモ・ファーベル)にとってかわられたのである。

(マイネッケ『ドイツの悲劇』矢田俊隆訳、中公文庫、1974年、p.74-75)

 シュリーフェン計画は19世紀末のドイツが対仏・対露二正面戦争になることを警戒してあらかじめ立案していたフランス侵攻計画だが、独仏国境の要塞地帯を避けるという戦術的要請から、中立国ベルギーを侵入・通過してフランス領内に進軍することを最初から前提するものだった。実際にも第一次・第二次両大戦のドイツ軍は、西方戦線でこれに近い作戦行動を取っている。
 その前に読んでいた本では、戦前の日本でも似たような発想があったことが紹介されていた。

 日本軍がタイ領マレー半島に上陸し、その海岸沿いを南下して、シンガポールを攻略する計画は、大東亜戦争において実際にとられた戦術であった。マレー半島におけるイギリス軍の要塞砲はすべて西のインド洋の方向をむいており、ジョホール・バルとシンガポールの大砲はすべて南の海峡側にむいていた。これは、イギリスが自身の敵は同じくヨーロッパの方向から来ると想定しており、北や南から(つまり日本の方から)来ると想定していなかったことを意味する。
(略)
 ……このイギリス支配のマレー半島攻略にさいして、大本営の陸軍の参謀総長と海軍の軍令部総長 ── これらを合わせて、大本営が組織されている ── をはじめとする軍部指導者たちが考えた案は、中立国のタイ領のシンゴラ海岸に上陸する、というものであった。このとき、軍部の指導者たちは交戦国でないタイに上陸することが国際法違反になることを、だれ一人として考えつかなかった。
 これに対して、昭和天皇のみが、国際法からみたらこのタイ上陸案は違反になるだろう、と気づいたのである。昭和十年代の日本が国際社会から孤立していわば“閉じた”社会になりつつあったとき、天皇のみは英米をふくめた国際社会に“開かれた”精神をもっていたわけである。
 ……山田朗の『昭和天皇の戦争指導』(昭和出版、1990年)によれば、翌朝の両総長が参内のとき「タイ国領内への上陸は、事前外交交渉によってタイの了解をとりつける」といった条りは、天皇の忠告に従って、原則としてタイの中立を侵犯しない案へと改められたのだった。
 いずれにしても、この中立国タイへの上陸をめぐるエピソードは、軍部には作戦指導者はいても、国際法までを視野に入れた戦略家がいなかった事実を物語っていよう。……

松本健一『日本の失敗 「第二の開国」と「大東亜戦争」』岩波現代文庫、2006年、p.300-302)