影響

 ネット環境の普及によって、それ以前には世間一般に見えなかったために知られることもなかったいろんな物事が、不特定多数の人々の前にどんどん可視化されていった。Windows95のブームをきっかけにして日本でインターネット利用が広まり始めた頃、このような「見えないものの可視化」は、基本的に社会の風通しを良くする明るい傾向として語られた。時には、何らかの媒介者を通さずに不特定多数の個人の声を直接社会に届かせることを通じて、新しい民主主義の誕生が期待されることもあった。
 それから15年を経て、不特定多数の全般的な可視化がいったい社会にどんな変化をもたらすのか、その具体的な“結果”が次第に私たちの前に現すようになってきた。その中には、以前から予想されていたものもあったが、予想していなかった意外な変化も含まれていた。

 不特定多数の全般的な可視化という時、そこに市民社会の明るい未来を見ていた人は、可視化されるものが基本的に「明るいもの」であること、あるいは情報自体は明るい材料でなくとも、その材料を通して人々がよりよい社会を作り上げるのに資するステップとなり得るものであることが、多かれ少なかれ前提されていたのではないかと思う。
 実際には、ネットという媒体が出版・放送媒体と異なって情報の“編集”プロセスをほとんど介在させないこともあって、明るいものや暗いものというだけでなく、美しいものや醜いもの、人を喜ばせたり悲しませたりするものもあれば人の憎悪を掻き立てるものもあるといった具合に、種々雑多な情報が混在してあふれ出るようになった。情報技術そのものが価値中立的であったとしても(メディア技術の隠れたイデオロギー性云々はここでは考えない)、その上で送られるメッセージは主観的価値に満ちあふれたものであった。だが、ここまでは事前にある程度は予測できたことだろう。
 私が思うに、事前の「ネット民主主義」的な期待との実際の展開との間でもっとも大きくかけ離れたポイントは、ネット上の情報を受容する人々が受ける影響が過小評価されていたこと、言い換えれば「情報を発信したり討議したりする能動的主体」についてはある程度考えられていたが「新しい環境から情報を受け取る受動的主体」についてはかなりの部分が見落とされていた点にあるのではないだろうか。ただ、新しいメディア経由で他人に影響を与える側面だけではなく、逆方向に新しいメディア経由で他人から影響を受ける側面、さらには受けた影響が今度は他人に与える影響にフィードバックする側面などを考えるには、「実際にどのような影響を受けたのか」という経験的な知見が必要となるので、事前に推測することはなかなか難しかったと思う。特に、ネット上で“ヘイトスピーチ”が一般的に見られるようになり、それがネットの外にまで波及する事態など、たぶん誰も予想していなかったのではないか。

 ……この夏に起きたいろんな事件を思い出しながら、そんなことを考えたりした。