イースター島

 先日、コン・ティキ号の実験航海で有名な考古学者トール・ヘイエルダールイースター島発掘記『アク・アク 孤島イースター島の秘密(上・下)』(社会思想社/現代教養文庫、1975年)を古本屋でたまたま見つけて、非常に面白かったので、その続きでイースター島関連の話をネット上でもいろいろ見て回っていました。実際にイースター島に住んでいた方のWeb日記や、建機会社が倒れているモアイ像の一部を原状復帰させるプロジェクトのスポンサーになった話など、現代のイースター島にも面白い話がいっぱいあるようです。ちなみに島内唯一の市街地であるハンガロア村の近くにあるマタベリ空港は、もうすぐ引退するNASAのスペースシャトルの緊急着陸用滑走路にも指定されていた経緯があるため、小さな島に似つかわしくない長大な滑走路を持っているのだとか。

これは、実はアメリカのNASAによって、
1986年にスペースシャトルの緊急用着陸地として建設されたとか。
シャトル着陸後、ジャンボに積載して
再度移送しないといけないので、 十分な長さが必要なのです。

イースター島 3日目 ラノカウ火口 ─ 宇柳貝四方山話 2006/9/20

 ヘイエルダール達の発掘調査団がイースター島にキャンプを構えて一年間に渡る発掘調査を行ったのは、シャトルどころかまだスプートニク1号も飛んでいない1955年から56年にかけてのことでした。現代ほどではないとはいえ、既にある程度西欧型文明の生活スタイルが行き渡りつつあったこの島で、ヘイエルダールは発掘・調査活動を通じて深く交流を持った島の住民が、西欧文明的な知性やキリスト教的宗教生活(牧師が一人常住していたそうです)と、伝承されてきた呪術的思考を同居させていることに対する戸惑いをしばしば書き記しています。
 一方でヘイエルダールは、不思議なモアイ像の存在が決して常識を超える神秘的・超自然的現象などではなく、古来の智慧として十分説明可能であることを立証しています。実際に行われた実験では、岩から切り出される途中で長い間放置されていた重量何十トンものモアイ像を再び切り出し、高い位置(モアイを配置する土台)に持ち上げて垂直に立てたり、切り出した場所から離れた位置までモアイを移動させる作業を、ほぼ現地住民のイニシアティブに基づく方法で実践しています。

 コン・ティキ号の実験航海をはじめとして、ヘイエルダールの顕著な業績として知られている活動は第二次大戦直後に行われています。この点について、あのレヴィ=ストロースと比定する見方がありました。

 ヘイエルダールが生まれたのはヨーロッパでは第一次世界大戦が始まった年、太平洋に渡った1937年は盧溝橋事件を契機に日中全面戦争が始まった年である。さて、戦争、南米、文化人類学という三題話ですぐに思いつくのがレヴィ‐ストロースの『悲しき熱帯』だ。南米といっても、レヴィ‐ストロースの『悲しき熱帯』のおもな舞台がアンデス山脈の東側であるのに対してヘイエルダールはその西側だ。また、ヘイエルダールはレヴィ‐ストロースとちがって哲学の面から注目されることはなかった。しかし、内海や地中海ではなく大洋を超える民族移動の可能性を実証したという点で、ヘイエルダールの功績はけっして小さくはない。戦争の時代は、人類学が世界の見かたを変えるような発展を示した時代でもあったのだ。
(略)
 二回の世界大戦はヨーロッパ中心主義を打ち砕いた。ほかならぬヨーロッパ人のなかから非ヨーロッパ世界をたんなる文明に遅れた世界として見るのではない世界観の確立をめざす動きが出はじめた。もちろんそこにはヨーロッパ人自身がヨーロッパ中心の世界観を否定しようとすることからくる偏りやひずみはあったであろう。しかしそれをいうなら日本人がヨーロッパ中心主義を否定しようとしてもやはり日本人がやることに特有の偏りやひずみは生じるものだし、たぶん中国人がやってもマレー人がやってもそれは同じである。それはともかく、レヴィ‐ストロースもヘイエルダールもその時代の知的な流れに乗ってそれぞれの目的を追究したのだ。

【「温故知新」 本をめぐる雑談】コン・ティキ号探検記

 現在、イースター島はチリの「ラパ・ヌイ国立公園」(ラパ・ヌイは地元の人がイースター島を呼ぶ名称)に指定され、その全域がユネスコの世界遺産として登録されています。