反映

わが町の中学校の隣の空き地のまんなかに、巨大なけやきが立っていた。そのわきに、もう何年も人が住んでなさそうな、今にも倒れそうな二階屋がたっていた。けやきは、この町の他の場所にあるものの少なくとも二倍の径の幹もつくらいの、堂々としたものだった。樹のたかさも、枝のひろがりも、人の手が入っていないらしいだけに、ちょっと見かけないくらい大きかった。今日、通りかかって樹も、家も、なくなっていることに気付いた。樹は、残すことができなかったのだろうか。このあたりは、主に交通の便がよくないことなどから東京郊外のスプロール化をかなり遅れて受けていた。その遅れの間に、街のつくりかた、土地の処分方法など、先人の経験を学ぶ余裕などはなかった、ということだろう。この街も、破滅への道を共に歩んでいる。

「“多摩の道”草」:いつもみちくさ 2000年5月14日

 街の外形的なあり方は、そこに何を造るかだけではなく、元々そこにあったものの中から何を除去し何を残すかという取捨選択の過程を含めたプロセス全体の中に、その街を造ろうとする人々の欲望・希望や時代背景等を反映させているものだと思います。
 大樹を除去して新しい建物や道路を造りやすい土地を造成するのは、そのような形のほうが望ましいという関係者や社会一般の価値観の反映であり、そのような土木工事が可能であるという技術レベルの反映でもあります。その先に何らかの“破滅”があったとしたら、それは(個々ではなく一般意志としての)“私たち”自身が望んだことなのだ、という解釈も、あるいは可能なのかもしれません。