カクレキリシタン

 1549年、鹿児島に上陸したフランシスコ・ザビエルによって始められたキリスト教の布教は、日本の北端、当時の蝦夷にまで及び、日本文化に足跡を残すこととなった。
 しかし、豊臣秀吉によって始まったキリシタン弾圧は、1614年の徳川家康のキリシタン禁教令によって徹底され、65年間のキリスト教の痕跡は完璧なまでに払拭され、おびただしい殉教の記憶だけが、民衆の心に遺された。

Iseky's HOMEPAGE ─ 「かくれキリシタン」を訪ねる旅 Part 1 2005年8月8-10日

「殉教の記憶」は、往時の隠れキリシタンの行動や行事を反映した文献や遺物・遺構として、その姿をとどめています。隠れキリシタンというと長崎や熊本のイメージが強いのですが、実際には全国でマリア地蔵やマリア観音などといった遺物が点在しています。
 例えば木曽路の旧宿場町である奈良井宿には、以下のような「マリア地蔵」があるのだそうです。

奈良井の宿場は中山道でも最も難所と言われた鳥井峠をひかえ、中山道11宿中最も栄えた宿場だそうだ。宿場の保存に力を入れているだけあって、街並みは江戸の宿場の古さを保っている。又家の中も極力古い姿を保つことに力を注いでいるように見えた。
……
奈良井宿には寺が多い。印象に残ったのは大宝寺の「マリア地蔵」。どういう訳か首がない。抱かれた子の持つ草が十字架のようである。

こんちゃんの雑記帳 ─ 木曽路の旅 1999年10月19日
残念な事にお地蔵さんのお顔、抱かれた乳児の顔、いずれも在りません。
明治の廃仏毀釈の騒動で、壊されたのでしょう。
そして、竹薮の中に捨てられてしまいました。
この、木曽谷の美しい奈良井でさえ、狂気が駆け巡ったのでした。
(略)
この木曽谷には「隠れキリシタン」と呼ばれる石仏が何体も発見されているのです。

木曽町には「折畳マリア象」、大桑村の天長院にも子育て地蔵がマリア像である・・・、いわれています。
大桑村の妙覚寺にはマリア観音像は千手観音です、ただその左手に持った”鉾”の先端が十字架なのでした。
(略)
6世代も7世代も引き継がれると、パードルの教えは木曽谷の土着の信仰に融合した事でしょう。
袈裟の下に聖衣を着せても、蓮の茎の先端を十字架にしても・・・・、子安地蔵に変わりありません。
まして、ローマ法王に認められた神父に接する事は全くありませんでした。
キリスト教は既に土着化し、十字架の上のキリストの教えは記憶の彼方に霞んでしまった事でしょう。

貧しい生活、苦しい日々の中で子供を失う事が多々ありました。
祖先が拝んだ事であろう、「キリストを抱いたマリア像」が数世代を超えて、
何時しか「賽の河原で赤子を抱き上げて下さるお地蔵様」に変換したのでしょう。
人々の悲しみを解ってくれたのが「マリア様の面影を残した子安地蔵」であったのでしょう。

これはもう「隠れキリシタン」というよりは「潜入キリシタン」とか「土着キリシタン」と呼ぶべきでしょう。
ベースは地蔵信仰であり、信仰の原点は「乳児を失った悲しみ」の救済でありましょう。
「パードルが盛んに木曽路を布教した」そんな十字架やマリアの記憶が、
数世代、数百年を超えて、石仏の小さな表現に残されたのでしょう。

奈良井宿、マリアの面影(土着キリシタン) ─ 仮想旅へ 2011年11月21日

 また長崎の島嶼の一部では、現在も民間信仰として土着化した儀式を継承している人々がいるそうです。こうした現存の「カクレキリシタン」は、元を辿れば安土桃山時代に渡来したイエズス会宣教師等が日本に広め、織田信長や一部の大名が許容したことで一時定着したカトリック信仰に由来しますが、その後の歴史的過程で外の世界との接点を閉ざされ、自らの信仰をも隠し通さなければならなくなった経緯が長い間続いたことで、次第に信仰そのものが独自の形態へと変容していきました。今では正統的なカトリック教会とのつながりを持たない、日本独自の民間信仰のひとつとして存在します。

 ……黒崎と並んで有数のカトリック地区である出津に住む中山氏は、長崎県のなかでも最も繰返しマスコミ関係者、研究者、カトリック関係者の訪問を受けた人物のひとりである。中山氏は彼らから「あなたがたはもともとカトリックなのに、信仰の自由が許された今、なぜ教会に戻らないのですか」という質問を繰返し繰返し受け続けた。
 中山氏が「カクレキリシタンとカトリックとは神は同じだが」という時、その言葉は昔から伝えられてきたものではなく、近年の外来者との接触の中で形成されたものである。本音は「先祖の道を務めるのが信念」という言葉に端的に示されている。
 出津に限らず、すべての地域においてカクレの信仰の根本は、「長い潜伏時代を経て意味内容はほとんどわからなくなってしまったが、先祖が大切にしてきた信仰の形だけでも伝えていくのが子孫としての務めである」という信念である。信仰の表現方法は異なっても、救われていることには変わりはないと確信している。もしそうでなければ、御先祖様たちは救われていないことになる。

(宮崎賢太郎『カクレキリシタン オラショ ─ 魂の通奏低音長崎新聞社、2001年、p.270-271)
 ……現在の日本の仏教徒は日本仏教徒なのであって、本来の原始仏教徒ではないのである。現在のカクレキリシタンは御先祖様を大切にし、さまざまな神仏を拝み、タタリを恐れるカクレキリシタンであって、本来のカトリックではないのである。
 カクレキリシタンにとって大切なのは、本来のキリシタンの教えを守っていくというのではなく、先祖が伝えてきたものをたとえ意味は理解できなくなってしまっても、それを絶やすことなく継承していくことであって、それがキリスト教の神に対してではなく、先祖に対する子孫としての最大の務めと考えているのである。カクレはキリスト教徒ではなく、祖先崇拝教徒なのである。
(略)
 ラテン語の訛ったオラショや、洗礼、クリスマス、復活祭などに比定できる行事を伝えているというようなことによって、いまもってカクレキリシタンはキリスト教徒であると見なしてはならない。仏教や神道、さまざまな民間信仰と完全に融合し、まったく別のカクレキリシタンというひとつの民俗宗教に変容している。

(上掲書、p.282-283)