総集編としての「完結編」

 1983年に劇場公開された『宇宙戦艦ヤマト完結編』は、終わる終わると言いながらそれまで延々と続いてきた『宇宙戦艦ヤマト』シリーズに一応ピリオドを打つ作品という名目になっていた。既に『さらば宇宙戦艦ヤマト』の時点で“さらば”しなかったという前科があるのであんまり信用されていなかったところもあるのだが、一応その後はしばらく空白期が続き、続編といっても直接“あの”ヤマトが登場しない『YAMATO2520』等に留まっていた。しかし最近のここ数年の間に、『宇宙戦艦ヤマト復活編』として直接の続編が製作されたり、多少設定を変えてはいるが初代テレビシリーズに沿った形で実写版が作られたりして、「やっぱりヤマトは“さらば”も“完結”もしないのか」という印象がよけいに強くなってしまった。
 そんな“その後”を知ってしまった今ごろになって、結局完結編じゃなくなってしまった『完結編』を見ることに意味はあるんでしょうか? などとどっかのギャルゲーみたいなことを思いつつ、何となく『宇宙戦艦ヤマト完結編』を見ていたのだが、これが結構面白かった。だいぶ昔に見たきりで細かい内容などはまったく覚えていなかったので、なかなか新鮮な気分で見られたし、昔見た時には恐らく気付いていなかっただろう部分でいくつか新しい発見もあった。

『完結編』の物語の舞台は西暦2203年(初代のイスカンダル行きから4年後)。水の惑星「アクエリアス」の飛来によってディンギル帝国の母星が水没・全滅した後、都市衛星ウルクに本拠を置いていた帝国のルガール大総統は地球を新たな移住先に定めて侵攻を開始した。ディンギル帝国はアクエリアスを人為的にワープさせて地球に近接させ、地球の重力に引かれてアクエリアスから流出する大量の水で、ディンギル本星同様に地球の文明を水没させるという作戦に乗り出したのだが……
 この時点で私は「おいおいおいちょっと待て」とツッコミを入れてしまった。アクエリアスをワープさせる技術があるなら、いちいち移住先を探すより最初から本星を守ったほうが早かったんじゃないのか。しかも本星水没の報を聞いたルガール大総統は、何故か本星で水没して全滅した同胞について「弱肉強食、弱いものは滅びるのが当たり前」などとわけのわからないことを言っている。
 ただ、見ているうちに、このシチュエーションってどこかで見たことあるなーという気がしてきた。母星が滅んでしまい、その移住先として地球を選んで人類の絶滅を図る異星人。彼等は「ハイパー放射ミサイル」という謎の放射能兵器(?)によってヤマトや地球艦隊に当初圧倒的な優位を誇る。地球艦隊は全滅してしまい、地球に残された頼みの綱はヤマトただ一艦のみ……待てよ、これって実は初代テレビシリーズのシチュエーションにかなり似てないか?
 そう、実は『完結編』の設定や物語展開って、よく見ると初代テレビシリーズの流れによく似た構成になっているのだ。地球の脅威としてガミラス帝国の代わりにディンギル帝国を配し、ガミラスの放射能遊星爆弾の代わりにアクエリアス水攻め攻撃とハイパー放射ミサイルが地球人を脅かす。ほーら、そっくり。ただし、ガミラスディンギルに取って代わられてこの作品からまったく姿を消したというわけでもなく、最後の最後でヤマトの危機を救うために、デスラー率いるガルマンガミラス艦隊がちょっとだけ登場する(この点は後述)。
 他にも、『完結編』では過去のヤマトシリーズ作品を彷彿とさせる描写が随所に現れる。後半のウルク強襲では、アクエリアスのワープ制御施設を破壊するためにコスモタイガー隊が敵前強行着陸して乗りつけて白兵戦を展開するあたりで、『さらば』の対都市帝国戦を連想させる描写が見受けられる。ワープ前の水の惑星アクエリアスに着水するヤマトの姿は水多き惑星イスカンダルに到着した時のヤマトの着水シーンを連想させるし、空中に浮かんだアクエリアスの女王らしき人のイメージがヤマトに語りかける場面も、なんとなく「私はイスカンダルのスターシア……」っぽい。
 何よりもこの作品では、初代テレビシリーズの最後で死んだはずの沖田艦長が、「佐渡先生の誤診」という非常に苦しい理由によって“復活”している。このプロットは劇場公開当時からだいぶ顰蹙を買っていたところだと思うし、私も過去のシリーズを矮小化してしまうようなこのプロットに決して感心はしないのだが、『完結編』の物語展開が初代の対ガミラス戦(イスカンダル行)と同じ構成を意識的に持たされているのではないか、という先の推測が当たっているとするならば、沖田艦長の復活についてもその意図はある程度理解できるように思う(ただし賛成はしないが)。
 もともと初代『宇宙戦艦ヤマト』の物語には、ヤマトの航海を通じて若者(古代や島達)が先達(沖田艦長等)から道を教えられ、やがて自立していくまでの成長物語という人間ドラマの軸があった。もし初代ヤマトと同じ物語構造を再現しようとするなら、たとえ違う形であってもこの軸をなおざりにするわけにはいかない。そして次の世代に道を指し示す先行世代の代表が必要となるのであれば、ヤマトという艦船においてもっとも自然にその役割を務められるのは、やはり艦長その人でしかない。とはいえ、もしヤマトに初代の流れを再現しようとするならば、ヤマトを率いる艦長は成長途上の若者ではなく、若者を率いる老戦士でなければならない。それまでのシリーズにおいて古代は既にヤマト艦長ないし艦長代理を務めてきてはいるが、次の世代に道を指し示して世界の運命を負って立つ責務を託すほどの、“先達”としての重みはとうてい望めない。『新たなる旅立ち』等のシリーズ後半作品では古代達レギュラー陣がベテランとして新米乗組員を指導する展開もあるが、沖田と古代の関係のような人格的師弟関係、というよりほとんど親子関係に近いつながりの濃さはない。だからといって、十年間に渡って視聴者や観客のお馴染みとなってきた若い乗組員連中(古代や島達)をヤマト艦上で率い、人格的に導くことにことのできる、というより目上に立って古代達を率いても観客に違和感を覚えさせないだけの説得力を持たせられる人物は、「完結編」のみに登場するゲストキャラでは務まらない。実際には沖田と古代以外にもヤマトの艦長を務めた人物は二人おり(『さらば』の土方と『永遠に』の山南)、それぞれに魅力的なキャラクターではあるのだが、シリーズ全体を通して巨大な存在感を示した沖田艦長とシリーズ主人公たる古代の二人に比べると、どうしても影の薄い存在であることは否めない。
 つまり、古代達メインキャラクターを動かすことなく、初代テレビシリーズのテイストを違った形で再現しようとしたならば、観客に自然に受け入れられる形で古代達を率いてヤマトの艦長を務められる人物は、沖田艦長以外には存在し得なかったのだ。もっとも、そのために別の意味でプロットの不自然さが際立ってしまい、『完結編』に対する批判的見方を代表するポイントになってしまったのは皮肉なことではあるが……。

 では、そんな不自然で強引な方法を取ってまで、『完結編』にあえて過去シリーズの構成や展開を彷彿とさせる描写が盛り込まれたのは何故か。そのヒントは、先にちょっと触れたデスラーの扱いに現れている。
 もともと初代テレビシリーズで主敵ガミラス帝国の総統としてヤマトの前に立ちはだかったデスラーは、ガミラス滅亡後彗星帝国に亡命してヤマトの前に再度出現したり、ガルマン・ガミラス帝国という形でガミラス再興を成し遂げたりしたが、シリーズ全体を通して次第に地球の敵から、地球の(というより「ヤマト」の)ライバルであり友である者へと、スタンスを変化させていった。シリーズ全体を通じてデスラーは、単なる敵ではなく、戦いを通じて芽生える友情というモチーフを背負うキャラクターに変わっていったのである。
『完結編』の冒頭で、ガルマン・ガミラス帝国は銀河系中心部で発生した大異変によって壊滅的被害を受けたと説明される。以降、ガミラスは物語の最後の方までまったく姿を見せず、物語の大半は地球(ヤマト)とディンギル帝国の間で、あたかもかつての地球対ガミラスの似姿のように展開されるが、最後にヤマトが絶体絶命のピンチに陥ったところで、デスラー率いるガミラス艦隊がBGMを背負って現れる。『完結編』の構図が基本的に初代テレビシリーズに似たものであっても、このデスラーの助力に相当する存在は初代には無かった。
 つまりこういうことだ。10年前(作中時間では4年前)、最初の地球壊滅の危機を救ったヤマトは、10年後に訪れた同じような危機の構図を、今度は10年前とは違った環境の下で救おうとしたのである。10年前の地球は、ガミラスの脅威に対してほぼ孤立無援であった。それから10年後の地球では、同じような危機に際して、今度は元の敵であったガミラスが味方についている。
 一方で、10年前にはあったけど10年後(『完結編』の世界)には存在しないものもある。イスカンダルとスターシャの存在だ。かつての危機において、確かに地球は孤立してはいたものの、遠く離れた地から救いの手が差し伸べられてはいたし、「どうしたら地球は救われるのか」という道筋も示されていた。対ディンギル戦においては、そういう外部からの救いは存在しない。基本的にヤマトは自分たちの手持ちの力だけで危機を打開し、独力で為すべき道を考えなければならない。
 10年前の地球には、友はいなかったが導き手がいた。それから10年後の地球には、対等の友はいるが導き手はいない。この二つの状況の対照が、ヤマトにおける初代と『完結編』の違いの中に、同じような危機の構図として示されているのである。それは地球そのものの自立のプロセスでもあるし、あるいはその相似形である古代達の成長物語としてのヤマトシリーズの流れの象徴的表現でもある。ある意味で『完結編』は、単にヤマトシリーズの最後の作品を目指しただけではなく、それまでのヤマトシリーズの流れを総括して、初代テレビシリーズを中心としたシリーズ全体のエッセンスを形を変えながら一身に体現しつつその間の「変化」を見せていく、一種の「ヤマトシリーズ総集編」として製作されたのではないだろうか。

 そう考えれば、かなりいびつな形になっていることは否めないとは言え、『宇宙戦艦ヤマト完結編』は文字通りヤマトシリーズ10年間にピリオドを打つ完結編としてのみならず、それまでの10年間を総括するヤマト総集編としても、一応の形を為してはいるのだ。それだけに、今ごろになって“復活”させる意味はよけい無かったのではないか、とも思わされてしまった。