特殊な“商品”

Togetter - 授業中の出来事をWeb上に利害関係者の許可無く「晒す」ということについて
「ヘドがでるけどナ」と書いた学生 ─ Ohnoblog 2 2011/7/30

 この話題を見かけた時に一番最初に連想したのは、東映の白倉伸一郎プロデューサー(平成仮面ライダーシリーズの大半を手掛けた方)が以前ブログで書いていたことでした。

学校教師が、「クラスにカワイイ女の子が転校してきて萌え」とか書いてるブログを見たことがない。
「カワイイ患者に萌え」とか書く医者ブログも見ない。

なぜでしょうね?

反ブログ(3) ─ A Study around Super Heroes 2005年8月24日

 これより以前の記事(1) (2)を見ていただければわかりますが、白倉氏の記事はもともと自身の仕事である番組制作において、内部関係者がブログ上で撮影に関する情報を書いてトラブルになった(らしい)ことが契機になっているようです。

職務上得た情報をみだりに洩らしてはいけない。
その《情報》には、職業人としての個人の感想もふくまれる。

「社会人の常識」ということでいえば、ケータイのアドレス帳がどうこうより、はるかに基本中の基本中の基本だ。

なんだけども、「絶対サポセン黙示録」みたいなサイトは昔からあり、「サポセン系」とでもいうべき一大カテゴリを形成するほどの勢力を誇ってたりもする。
(略)
……異業種であれば絶対に許されないような行為が、コンピュータ業界にだけ許されるはずもない。「上司にバレなきゃいい」と《情報》を洩らしまくる個々人の、プロ意識の低さを批判することもできるだろう。
しかし、その前に、はるかに重要な問題がある。

どうして彼/彼女らは、「情報を出す/出さないは、自分のリスクだ」と考えるのか、という問題だ。

反ブログ(4) 2005/9/1

 もちろん、同じように職業人云々といっても、サポートセンターと大学教員とでは異なる点があるでしょう。実際のところ、「カワイイ患者に萌え」より元の記事で話題になっているレポートの方が、公開された者にとってはある意味クリティカルかもしれませんが、別の意味では“まだ許せる”範囲のようにも感じられます。
 でもそれは、どこがどのように違うからそう感じるのでしょうか。
 職業上知り得た「カワイイ子に萌え」という情報(?)は、基本的にその人の自由な意志決定に依らない先天的属性に属するものからまずいのでしょうか(もちろんメイクアップやら何やらの自覚的努力もあるでしょうが)。でもそれ以外にも、サポセンの例が出ているように、「職務上得た情報」は他にいくらでもありますし、その中には相手の自律的な意志決定を伴った、職務としての「対等な個人同士の自由な交渉」によって得られたものだってあるでしょうし……
 ん? ここで「交渉」と書いたところでふと気付くのですが、果たして交渉しているのは“誰”でしょうか? 相手は相手「個人」だったとして、対する私やあなたは、はたして「個人」としての資格で交渉しているのでしょうか? それとも、組織の属性の下に、その場における「組織」の代理人として交渉していることもあるのでは……?
 白倉氏の書いている『どうして彼/彼女らは、「情報を出す/出さないは、自分のリスクだ」と考えるのか』も、恐らくここにかかってくる視点なのでしょう。映像作品(仮面ライダーでもゴーカイジャーその他の何でもいいですが)のスタッフとして撮影に参加している人は、その人「個人」として行動しているのではなく、東映やその他の組織の機能的一部として、あるいは比較的フリーに近い立場のキャストではあっても番組プロジェクトの一員として、つまりは個人ではなく多かれ少なかれ組織・集団としての立場でその活動を行っています。それ故に、その人の行動はその人個人の行動に留まるのではなく、その人によって代理・代表されている組織や集団の行動として、対外的には解されることになります。
 カワイイ患者さんは、個人としてのあなたに会いに来たのではなく、医者としてのあなたに会いに来たのであって、その時のあなたもまた、相手をカワイイと思う「個人」としてではなく、あくまでも患者を看る医者という属性において接していかなければなりません。
 もちろん、これがいつなんどきであれ常に貫徹されねばならない「定言命法」であるとまで言うつもりはありませんが(場合によっては「これこれこの点において私は組織的判断に従属することはできない」という判断を行うことは当然あり得るでしょう)、基本的に尊重すべき職業倫理ではあるのです。

 では、大学教員の職業倫理はこれとどのように同じで、どのように違うのでしょうか。
 この手の話を専門的に学んだことがあるわけではないのでいいかげんな話になってしまうかもしれませんが、一つ思いつくのは、この場で取り扱われる“商品”は思考そのものであり、しかもその思考が完成品として提示されるのではなく(高校以前の教育ではそういう要素が強いでしょうが)、交渉・取引の過程で変容していく(しかもしばしば双方が互いに変容する)ことがむしろ前提とされていることです。もう一つは、交渉の一方の参加者が基本的に(何らかの意味で)未成熟であることがある程度前提されているということです。
 教育を商取引になぞらえること自体かなり無理があるとも言えますが、こうして考えてみると、学生が授業や講義やレポートの中で表明する意見とはそもそもどのようなものであるのかについて、いくつかの点に気付きます。学生が教室内で提示する意見を、教室という“市場”で取引される“商品”として捉えるなら(また無理のある仮定ですが)、その“商品”にはそもそも“完成品”としての質は期待されておらず、またある一時点における意見は教育の過程における変容の途中経過であることが前提されているわけです。この観点から捉えた場合、教室という“場”は、教員のコントロールの下で、学生が提示する未完成の“商品”を未完成のままに提示することが公的に許容されている、特殊な“市場”空間であると言えます。
 では、この特殊な“商品”を、その提示先として前提されていた“場”の外に公開することは、どこまで許容されるのでしょうか。教員は、その公開の判断をどこまで自分自身のイニシアチブにおいて(上記の表現で言えば「自分のリスク」において)行うことができるのでしょうか。またこの場合、「職務上得た情報」としての「職業人としての個人の感想」は、当初前提してた“場”の外に公開されることがどこまで許容されるのでしょうか。

 結論は出ていないので、とりあえず思いついたところだけ書き連ねてみました。