死んだヒーローよりも哀れなのは……?

【閲覧注意】退廃的な画像ください

 特オタ的には仮面ライダーブイスリャーの乗り物(あれなんて名前なんだろう?)がちょいとツボだ。

 去年の『仮面ライダーディケイド』は、企画意図として平成ライダーだけでなく昭和ライダーをも再びリバイバル人気のサイクルに乗せようとしていた。その意図がどの程度まで成功したかはともかくとして、もはやセピア色に変色したフィルム上の「昭和の思い出」としてしか存在しないはずだったヒーローを、大人には“懐かしのヒーロー”として、子供には“新しいヒーロー”として再び「Stay the Ride Alive」させるというのは、それなりに面白い事だろうと思う。
 今のところ最後のディケイド作品となっている冬映画『MOVIE大戦2010』では、実際に「忘れ去られた者」の代表として、『仮面ライダーストロンガー』のサブキャラクターである電波人間タックル(の“リ・イマジネーション”キャラ)が登場している。マリー・ローランサンの詩の「死んだ女よりも哀れなのは忘れられた女」という一節を地で行くように、岬ユリコ/タックルは門矢士ただ一人が覚えていることで辛うじて作品世界の中に生をつないでいられる儚い存在だった。もしディケイドの戦いがなければ、タックルの存在もまた廃墟の中のV3のように、忘却の中に置き去りにされていたかもしれない。それが紅渡の語っていた「ライダーの物語は時と共に消滅する運命」であり、ひいては“世界の破壊者”ディケイドに課せられたミッションの意義だったというわけだ。V3に誰も見ていない湖畔でただ一人ポーズを取り続ける運命を与えないためのディケイドの旅。

 ……ただ、そうやって強引に忘却の過去から復活することが、果たして本当に幸せなことなのかどうか、正直なところよくわからない。

 去年の今ごろは全ライダー結集をウリにしたディケイド夏映画の『オールライダー対大ショッカー』のプロモーションが盛り上がっていて、特にオリジナルキャストの一人として『仮面ライダーBLACK/BLACK RX』の南光太郎役の倉田てつをが出演するというのが話題になっていた。結果的には映画の方では最後にちょっと顔見せ(とBLACKの声のアフレコ)するだけだったけど、その代わりにTV版の『ディケイド』のほうでは第26話(2009/7/26)~27話(2009/8/2)にかけて出ずっぱりだった。元々『ディケイド』では大人の事情でオリジナルキャストが出ることが少なかっただけに、BLACK/RX編でオリジナルの倉田てつをが出演した上に、単なるゲストとしてではなく実際に元のライダーに変身していて戦うというのは、同様にオリジナルキャストが出ていた響鬼編と並んで相当な話題になったものだ。

 でも、この“てつを祭り”は、裏を返せば「もはやBLACK/RXは“今の”ヒーローではない」ということを、ことさらに強調する結果にもなっていたのではないか、と思う。
 あくまでも『ディケイド』という特殊なお祭り企画が基盤にあったからこそ、その上に立って登場することが出来たのであって、独立した企画としての「20年後の仮面ライダーBLACK/RX」が果たして成立するかどうかは、まったくの別問題だ。倉田てつを自身はディケイドの放送前年くらいから『オールライダー』公開時期くらいにかけて、『BLACK/RX』の続編を作りたいという希望をしばしば口にしてはいるようだけど、実のところこれがどの程度現実的に成立し得るのかと言えば、正直疑問だろう。既に『ディケイド』も終わって“今の”ヒーローは『仮面ライダーW』であり、それすら二ヶ月ほど後には新番組の『仮面ライダーオーズ』に取って代わられる。『仮面ライダー電王』18話の愛理姉さんの台詞じゃないけど、仮面ライダーだって「変わっちゃう」し、「みんな同じところにはいられない」のだ。

 ただ、やはり同じ愛理さんの台詞を借りるなら、「覚えてれば、それは無くならない」とも言える。
「希望という名の拷問」の話じゃないけど、“希望”めいたものを公にして煽りたてて後でがっかりするより、むしろ思い出は思い出として大事に抱きつつもその現実的な“復活”をヘンに期待することはしない、というほうが大切なんだろうな、と思う。
「忘れないこと」や「覚えていること」と、それを「復活させること」は、決して同じではない。自分にとっての大事な思い出が世に広く喧伝され共有されていなくたって、一人ひとりが自分の大事な思い出をしっかり覚えていれば、それでいい。自分にとって大事な記憶は、万人にとってもやはり大事な記憶として共有されてなきゃいけない、そうでなきゃ世の中はおかしい、なんて考えることのほうが、実は自分の中に“閉じた”発想であるとも言える。
 そういう意味では、『仮面ライダーディケイド』の物語、つまり門矢士自身の物語は、“仮面ライダーの記憶”を巡って、かなり危ういところで綱渡りをしていたのだとも言ってもいい。
 朽ちたV3を見て、自分の思い出が今や遠い世界のものとなってしまったことに切なさを感じつつもそれを受け入れ「自分の記憶」として大事に抱き続けるのか、それとも「これはあってはならないことだ」としてV3そのものの復活を世間に受け入れさせようとするのか。『ディケイド』の物語は、その二つの態度の間で危ういタイトロープを演じていたのではないだろうか。