完全調和

 因果連関が原則として原因-結果の一対一関係に対応する、あるいは多対多であっても原則として分析的に「関係ある因果」と「無関係の背景」を切り分けることができる、と信じる態度が、余計に物事をこじらせるというケースも世の中にはあるんじゃないかという思いがある。さらにここに「原因のないところには結果もあるはずがない」という、結果をタブラ・ラサの原則で(つまり何事も為さなければ事象はゼロであるはずだと)捉える想念が組み合わさると、「都合の悪い事象の陰には常にそうしようとする邪悪な意図があるはずだ」という思い込みが生まれる。
 悪い事象には常に結果としての悪い事象を引き起こす悪い原因があるはずで、その悪い原因を特定し取り除きさえすれば悪い事象はきれいに無くなるのだ……と信じて主張し実行することにより、原因と措定されたものは消えるかもしれない。ただし、原因に措定されたものの消去によって、当初問題視していた結果のの事象までが消えるとは限らない。
 だが、先の因果を信じている者は、原因の撲滅によっても思わしい結果が生じないのはそもそも原因の措定自体に何か見誤りがあるからではなく、原因の撲滅がまだ不徹底であるからなので、もっと徹底的に悪い原因の撲滅に邁進すべきだ、と考えるかもしれない。スウィフト『ガリヴァー旅行記』のラピュータ人の章は、ちょうどこのような心性のカリカチュアを描いていた。
 この心性の背景には、前提的な思い込みとして、「もし全てが上手く回れば、世の中は完全な調和を為して何の軋轢もない状態になるはずだ」という想念があるように思う。何もしなければ何も起るはずがないというのも、まったきゼロという形での調和(軋轢もゼロ)という意味ではこれと同じだ。世界を調和的な体系として捉える発想はそれこそ古代ギリシアあたりから存在する話なんだろうけど、この想念が大衆レベルでも広く分かち持たれるようになったのはやはり“近代”の話なんだろうか。
仮面ライダーカブト』7話で初登場した矢車さんは「完全調和(パーフェクトハーモニー)」を標榜していたけど、リアルであんな感じの言葉を発する人が来た時に、「あ、素晴らしい人が来たな」と思うか「あ、胡散臭い人が来たな」と思うかの違いは、そもそも完全な調和などというものが人間社会にあり得るのかという懐疑をくぐっているかどうかの違いが元となるのかもしれない。
「既得権益」や「抵抗勢力」を攻撃する言説に接した時に、私が時々ちょっとした怖さを感じるのは、「それさえなければ日本は良くなり完全調和が実現する」という因果認識そのものに対する懐疑は果たしてこの言説の中に介在する余地があるのだろうか、という点に一抹の危うさを覚えるからである。私が「紅衛兵が多すぎる」と感じるのはそんな時だ。