「あってはならないこと」

「あってはならないこと」ってなんでしょ?

 小生の馬鹿頭でいくら考えても,この言葉は理解不能なんです。「在る」と「無い」の反語で成り立っている,この言葉は,奇妙な語感を小生に与えます。
 「あってはならない」と思うのは人様の勝手ですが,現実世界では,思っているからといって,そうなるわけもないし,また期待していたら,人類はとうの昔に絶滅していたことでしょう。「なにがあっても」対処してきた先祖達のおかげで,こうして今の小生の存在があるのです。
 事故や事件の度に,この言葉が繰り返されます。決まって,こういう言葉を吐く人々は,現場責任者ではなく,上位管理者達です。これらの管理者たちは,己の精神世界で夢を見ているのでしょうか。そして,きまって,こういう時に聞かれるのが,現場の危険考慮の意見具申が受理されなかったとか,受理されても実行の変更がなされなかったという話です。
 負けてはならない,降伏してはならない,,,ではなく,「負けるはずがない,降伏などあってはならない」だった,あの敗戦から何も学んではいない”いんちきエリート”達が,再び,この国を敗戦へと導くのです。(瞑目)

kameのうわ言 2001年07月27日

「あってはならないこと」という表現の意味を構成する論理構造には、現実に生起した事象の世界とは別に、一種の可能的世界のレイヤーが重ね合わせられているのだろうと思います。現実に「aという事象が『ある』」世界(仮に「世界A」と呼びます)がある一方で、その上に仮想的な「aという事象が『ない』」世界(こちらは「世界A'」)が、あり得た可能性として重ね合わされ、その二つの差分によって、「世界A'」でもあり得たはずのこの世界が実際には「世界A」になっている、これはよくない、という認識が生まれます。
 こういう形で世界を認識する方法は、必ずしも夢物語だとばかりは言えないところがあります。例えば法律として記述されている社会規範は、単に「あれはいけません」「これはいけません」という都度都度思いついた個別の規範命題(禁止を含む)をアドホックに書き並べただけのものではなくて、必ず「法体系」としての全体的な整合性・体系性を意識したものとして構想されます。もちろん現実にはある法律と別の法律が矛盾する事態が生じ得ますが(何しろ現実に法律を作っているのは神ならぬ身の不完全な人間なのですから)、立法の原則としてはそうなります。それは、法体系が全体として「理想としてあるべき世界」の構造を指し示すという側面を持っているからです。もしこの法体系が完全に遵守され逸脱されることがなければ、人間社会は軋轢のない完全に秩序だった理想的な状態になるだろう……という、一種のあるべき理想社会を記述した「世界A'」の設計図が法体系であり、現実に生起している「世界A」の状態は、法律的にはこの「世界A'」に照らし合わせた時に「世界A」の中に見られる差分として認識されるのです。
 ただし、法体系において想定される「本来あるべき世界」としての「世界A'」は、現実には「○○すべし」よりも「○○すべからず」というネガティブリスト(言い換えれば原則自由・例外禁止)という形式で記述されることが多いかと思います。直接的な表現でなくとも、「もし○○したら××という罰則が適用される」という記述があれば、それは間接的に「○○すべからず」という法意志を指し示していると考えていいでしょう。

「あってはならないこと」の問題点とは、「ある」(世界A)と「ない」(世界A')が一つの命題の中に同居していること自体ではなく、むしろこの命題における「ない」(世界A')の妥当性、言い換えれば言外に規範的に示されている「本来あるべき世界」のビジョンの妥当性の部分にあるのではないかと思います。とりわけ、「世界A'」の規範が現実的にはとても遵守できるような状態では無かったとしても、なお遵守できなかった者を機械的に「世界Aを作りだした者」として罰する社会構造や、さらには「世界A'」を遵守できない状態を作りだしているのが他ならぬ「世界A'」の立法者・施行者自身であったとしても、なお罰せられるのはもっぱら下々の「世界Aを作りだした者」のみであるような社会構造がある場合、そのような「世界A'」の妥当性は疑問視されることになるでしょう。そのような場合、問題は「世界A'」の内在的・静態的な記述の中だけに探っても見つけることが出来ず、むしろ「世界A'」を取り巻く周辺的な事情(「世界A'」成立の経緯や、「世界A」の中における「世界A'」の実効的・動態的運用状態など)こそが主題的に問われるべき問題となります。