スキャンダル

マスメディアを通じて定期的に行われるスキャンダルめいたもの。そのほとんどがわたしたちにとっては「どうでもいいもの」だ。
NHKの不祥事であろうと、堤義明の逮捕であろうと、あびる優の万引きであろうと、どうでもいい。 わたしたちはなんの関係もない部外者だし、それがどのような結果になろうとも自分の生活はなにも変わりはしない。 むしろ、わたしたちにとって「どうでもいいから」からこそ、そのニュースをマスメディアは大手を振るって取り上げわたしたちに提供し、わたしたちもそれを楽しむ。
わたしたちが「TOB」とか「新株予約権」とか「議決権」とか「転換社債」とか聞きなれない用語を覚えたところで、なんの意味もなさない。だからこそ無邪気に覚えるのだ。

わたしたちは自分の周囲でくりひろげられるつまらない現実を忘れるために、テレビの電源をつけ、スキャンダルを享受しているにすぎない。 そのことを忘れて、スキャンダルを語るとどんどん品性が下がっていく。わたしはまだなんの引き換えもなしに下品になりたいとまでは思っていない。

まこりんのつれづれなる日々 2005.3.9

 逆に「どうでもよくないもの」、つまり自分のリアルな生活に直結した影響のある事象がニュースとなった場合、はたして私はどういう反応をするんだろう……と、まだ実際にそういう目にあったことが無いのにつらつら想像してみたのですが、どうやらそういう時はたぶん「何も書かない、何も話さない」ような気がします。そういう場合って、自分の発した言葉の一つ一つがどう自分にフィードバックしてどんな悪影響を及ぼすか判らないから、あんまり無責任にああだこうだって言葉を発することが出来なくなると思うんです。むしろ嵐が過ぎ去るまでじっと身を縮こまらせて静観しているんじゃないかと。
 社会の中の人間関係って、たぶん単純な因果関係で直線的に結び付けられぱっと一目で見渡せるように整理されたものじゃなくて、もっと複雑怪奇でどろどろぐちゃぐちゃしたものだと思います。他人事のスキャンダルの場合にはそういう複雑な事情や機微が見えないから、すっきり整理された見通しだけを手掛かりにしていろんなことが言えますが、我が事ともなれば否応なしにそうした複雑な事情が目に入りますし、自分自身もその複雑な行為連関の中に身を置いていますから、不用意に石を投じることでその波紋が思いもかけない影響を場に与え、予想しない形で自分に跳ね返ってくるリスクを、漠然とではあれ考慮に入れなくてはならなくなります。現実のつまらなさとは、見通しが単純であるが故に自分ならこの状況を“コントロール”できるという安易な全能感の幻想を許さない、現実の複雑さに由来しているのかもしれません。