快楽原則

 新宿に居着いて10年ぐらいになる。渋谷や銀座も好きだが、新宿が他の街と大きく違うところは異質なものを飲み込む受容性においてだろう。
 この街は、サラリーマン、OL、自営業など普通の人々が最も多いが、企業のエリート、官公庁に勤める公務員、ビルのオーナー、外国人、学生、労働者、浮浪者、水商売の人、同性愛者、芸術家、ヤクザ、落ちこぼれた若者達まで、いろんな人種、職業、階層の人々を受け入れる。
 高層ビルや都庁がある西新宿、性産業が多い歓楽街の歌舞伎町、高級住宅のある内藤町、緑地帯である新宿御苑、一流百貨店が並ぶ新宿駅周辺、外国人がたくさん住んでいる大久保や百人町、古本屋の多い学生街の早稲田、ごく普通の住宅街、日本のありとあらゆる側面と物質と闇を抱えている街だ。
 多種多様の人間と文化が混ざり合い、融合したり衝突したりしている。日本の経済・文化が活発に動いていると同時に、社会の裏にある闇も表層や地下でうごめいている。
(略)
 つまり新宿の最大の魅力は、さまざまな人間と文化を飲み込む受容性にあるのだ。いろんなものが雑多に混ざり合っていて、エネルギーや新たな文化が生まれる土壌がある。
 宮内さんは、行き詰まったグローバル化に対して、血や文化が相乗して、停滞することなく、より複雑化・多様化しつつ、たえず新しい局面、境界面を生みだしていくクレオール現象こそ、今後の救いではないかと言われていた。
 クレオールとは、もともとはカリブ海地域の混血によって生まれた言語や文化を指していた。今では、多文化混在の象徴として使われているが、新宿はまさにそうしたものを生みだしている街なのだ。

「新宿・異文化が混ざり合っている街」 ─ 松直伽の日記と備忘録 2002年9月1日

 多様性の世界には光と闇が様々なグラデーションを成して入り混じっていますが、闇の部分はリスク要因としてもっぱら排除の対象と捉えられることがあります。ただ、いろんな文化や欲望が渦巻いている状態が不特定多数の快楽原則によって生み出されているなら、そのカオスを恐怖と感じて闇を消し去りたいと願うのも、また別種の快楽原則の現れ(カント哲学あたりでよく言われる感性的快の追求という意味で)なのでしょう。そして後者の快楽原則は、整序されたマクロ的な秩序の美を求める思考にとっても願わしいものであるため、同じ快楽原則の綱引きの一方はしばしば公的なセクターによって担われることになり、もう一方を担うクレオール的なものがしばしば抵抗の文脈で語られるという現象を生み出します。

城の崎ストーカー

 ……
 道ばたではねられて、死んでいるいる動物。飛び出した動物が悪いのか、はねた運転手が悪いのか・・・・道路を造った人が悪いのか・・・・・人類が悪いのか? 人間と動物の間の文化レベルがここまで違ってきてしまうと何とも言えないですよね。
 でもさ、結局の所、人間の生活が他の動物へ危害をもたらしていることは事実。自分がけがをさせてしまった動物くらいは何とかしてあげたいですね。そんなこと、一生のうちで何回もあることじゃないから、1回くらいは、ね。

人間の責任と動物の責任(ひぽぽの平穏な日々 1998年4月26日)

「文化レベル」という表現が面白いと思います。人間にとって自動車は日常的な存在で、人間自身が作ったものであることからあくまでも自分自身のコントロールの内にある(と思われている)けれど、犬の目には自動車はある種のオーパーツに近い「未知の脅威」に映っているのかもしれません。人間と共に暮らしている犬にとっては自動車もまったく見たことがない存在ではないでしょうが、それが道路上の遭遇で、しかも相手が回避不可能なスピードで突進してきた状況ともなれば、もはや避けようのない運命として死やそれに近接した状況を受け入れるしかなく、人間のようにそれを「社会的に」回避する方策を取ることもできません(犬に対しては道路交通法等が人間と同じようには適用されません)。

 この話を目にしてふと思い出したのが、志賀直哉の古典短編小説『城の崎にて』と、ソ連のSF作家ストルガツキー兄弟のSF小説『ストーカー』(タルコフスキー監督の映画化作品で有名)のことです。まるでかけ離れているように見える二作ですが、よく考えるとこの両者は、異なる生物種同士の非対称的な遭遇によって発生するアクシデントを主題的に描いている点で、意外とプロットの構造が似ているように思います。人間や動物が圧倒的に隔絶した(哲学的?に言えば「超越的」ないし「非対称的」な)レベルから押しつけられた巨大な災厄によって生死の運命が左右され、しかも押しつけた側は特に意識しない限り、そのことに気付くこともありません。
 ただ、『ストーカー』がもっぱら運命を押しつけられた人類の視点に定位して物語が語られ、人智で解明できない不可思議な現象を引き起こす謎のガジェットを落としてそのまま去っていった側(異星の知的生命体?)については、その存在すら作中ではほとんど語られていないのに対して、『城の崎にて』では一人称主人公の「自分」が、非対称的な当事者双方の視点を入れ替えながら一連のエピソードを語っていきます。山手線の電車に跳ねられて城崎温泉に養生に来た「自分」は、電車という近代文明の産物によって脆弱な肉体にダメージを受けましたが、恐らく電車の方は何等のダメージも受けていないでしょう。そんな非対称的な関係の劣位に位置していた「自分」ですが、療養地の城崎温泉を散策している時にはその関係性が反転して、周囲の小動物に対して「自分」が非対称的な関係の優位に立つことになります。特に、いもりを驚かすつもりで石を投げたらその石が当たっていもりが死んでしまったくだりは、電車に当たって死ぬかもしれない目に遭った「自分」が、他の小動物に対しては簡単に電車の立場に立つことが出来るという立場の反転を、如実に示しています。小説『ストーカー』の原題は「路傍のピクニック」、つまり屋外のピクニックに来た人間が路傍に捨てていったゴミも、その地に生きる虫にとっては未知の恐るべき物体になり得る(そして作中の人類はその虫に相当する)という状況を指し示していますが、城崎温泉の「自分」は、“ピクニック”で何の気なしに路傍に投げた石がいもりにとっては生死を分かつ運命的な災厄になってしまい、しかもそれを引き起こしたのは他ならぬ「自分」であるという、皮肉な立場の逆転を経験することになります。

 なお『ストーカー』では、謎のガジェットによって様々な未知の現象が発生するために、そのガジェットの落下地点周辺は封鎖されて立入禁止区域となっており、その区域は「ゾーン(Зона)」と呼ばれています。自動車という異形の巨大な力によって犬(やその他の動物)がいつ跳ねられてもおかしくない道路もまた、犬にとっては人間が作り出した「ゾーン」だと言えるかもしれません。城崎温泉の「自分」は、さしずめ散策中の自分自身が小動物との力関係の違いによって、身の回りに一時的な「ゾーン」を形成していたというところでしょうか。さらに「ゾーン」という名が、かのチェルノブイリ事故に伴って設定された原発跡地周辺の立入禁止区域と同じ呼び名である(それ故に『ストーカー』もしばしばこの事故と関連付けて語られる)ことを合わせて想起すると、人間と他の動物の間だけでなく人間社会の中でも生み出される「文化レベル」の違いについて、いろいろ考えを巡らせたくなります。

of the people, by the people, for the people

 小学校5年か6年生の頃だったと思う。人民の、人民による、人民のための政治よ、と僕の隣の席にいた優等生ぶった女子は教えてくれた。
 リンカーンが発したこの言葉は、日本人なら必ず習わされる。なぜか最近になってこの言葉が気になりはじめた。
 ―「人民の」と「人民による」って、結局おんなじじゃないの?

 もちろん学校でそんなことを教えてくれるはずもなく、この三連句がセットで暗唱させられる。
 最後の「人民のための」だけは、わかりやすい。人民の利益になるような政治、という意味合いで、明らかに他と独立している。なのに「人民の」と「人民による」は、ふつうに考えればどちらも「人民自身が実施する」という意味になり、だったら、「人民による、人民のための政治」とだけ翻訳されればいい話だし、現にそう表記しているサイトもある。

Sea Lion Island 2004年8月11日

 有名な " government of the people, by the people, for the people " について、ofを政治権力の由来する権原を指示しているものという意味合いに取る解釈と、ofを目的格として「of the people=人民を統治すること」という意味合いに取る解釈が紹介されています。
 確かに後者の丸谷才一の解釈に基づく「人民を、人民が、人民のために統治すること」のほうが「スマートでわかりやすい」のですが、恐らく前者は、統治行為(government)がいかに組織され実施されているかということだけでなく、その統治行為はいかなる理由・根拠によって正統とされているのか、政治権力の正統性(legitimacy)がどこに由来しているのかを強く意識したものではないかと思います。イギリス王権からの独立戦争によって成立したアメリカ合衆国は、この国を支配する権力がどこか遠く離れたところにいる王権からの委任によってオーソライズされているのではなく、あくまでもこの土地に住んでいる人々自身によってオーソライズされているのだということを、こういった折にちょっとした形で再認識しているのかもしれません。

出る杭

 当時の自分の写真を見ると、どれも身を乗り出してるポーズだったのでびっくりした。周囲の級友よりも大きく写ろうとしているのだ。周囲の面々も同じく身を乗り出しているので結果的にはそれほど目立っていないのだが、それでも「自分が大きく写ろう」とする姿勢を持っていた自分が新鮮だった。
 というのも現在のぼくは、なるべく自分が小さく写るように身を引いているからである。
 ただ、これは謙虚になったからではない。歳を重ねるにつれて、「身を乗り出すと頭のデカさが強調されてしまう」ことに気づいたから。
 周囲の者も同じようで、最近のスナップをよく見ると全員、身を引くようにして写真に収まっている。そういや写真を撮るとき、みんな競うようにして「周囲よりも後ろになるように」ポーズをとっているような気がする。
 なあんだ、そうだったのか。大人になるにつれて謙虚さを身につけたのかと思っていたが、みんなそういうことだったのか。自己顕示欲がなくなったわけではなく、利己性が分かりにくい方向に進化しただけの話。
 氷山から海に飛び込もうとするペンギンの群れが、お互いに先頭を譲り合う習性を持っていることをふと思い出した。自分がサメなどに食われるのを避けるために、まずは仲間を飛び込ませて、安全を確認しようとして譲り合っているワケである。
 謙虚さとて利己的行動のひとつなのかもしれませんな。人間が動物の一員であることを実感させられた一件。

Otearai Web プチ日記 2004年9月23日

 他人より突出することではなく、逆に自分が一歩引くことでかえって得になることがあるという認識は、たぶん自分と環境との相対的な関係をより強く意識することによって得られるものではないかと思います。写真に映される時に、「自分がいかに映るか」という主観的視点だけでなく、「他人からいかに見られるか」という客観的視点も考え合わせた行動。または外部のサメという脅威を意識して、出る杭が打たれたり出るペンギンが食われたりする事態を回避しようという行動。「自分がこうすればこうなる」という直接的・一人称的な期待だけでなく、「ある環境の中で自分がこうしたら、その行動に対する環境からのフィードバックはこうなる」という期待をも考え合わせているのでしょう。

道なき道を行く

「判断力」だけでなく、「洞察力」というのもある。
どう違うか。
「判断」とは右の道へ進むか、左の道へ進むかを決めることじゃないか?
「洞察」は予知を含むのではないか?
と言うと、考えが足らないなあ~@^0^@ と、おっちゃん。
う~~む…。
ヒントをあげよう。2つ3つのものから選ぶのでは未来の問題は解決しないんだよ。
おっ、現代哲学ですね。(^_^;)
Yes、No、 では選択肢が2つしかない。
+1、0、-1、では選択肢が3つしかない。
選択肢はn値で考えるんだ。nは無限大。

わかったような気がする。
右の道か左の道か、ではないんだね。
どこに道があるのか、知るところから始まるんだ。
道でないところも、通れる可能性はあるしね。

パズル思考。 > kuu (風茶房 日々雑記 2005年7月4日)

 有限の選択肢を想定するのは、現実的にはロールモデル(判断や行動のお手本となる先人の人格モデル)を選択するという思考の道筋を通ることが多いんじゃないかな、と思います。ロールモデルは必ずしも実在の人物ばかりでなく架空のキャラクターから採られたり、特定の個人ではなく一般的な「こういう職業の人」「こういう立場の人」みたいな形を取ることもありますが、ともあれ「このような場合こういう人ならどういう選択をするか」というモデルを頭の中で何人か想定して、その中で自分自身は誰のように判断・行動するか、というような選択が行われます。
 そのようなロールモデルがまったく想定できない、少なくとも目の前の状況には誰のモデルも当てはまりそうにないという場合には、もはや「誰のように」というお手本を抜きにして、自分で一から「自分はどうするか」を考えなければならなくなります。道なき道を行く、と言えばかっこいいのですが、実際にはこの選択は結構しんどい。何しろ「本当にこれでいいのか」という基準が何もないところで先に進まなければならないので、ついつい不安になってしまい、無理をしてでも先人のロールモデルっぽいものを強引に当てはめて、自分のガイドとしたくなります。
 でも、そうして我流の曲解と強引な見立てによって援用されたロールモデルは、たぶんもう元の人格モデルの形とは似ても似つかない、というより元の人物・キャラクターの名前だけを借りた「自分自身だけの判断」になります。そういう意味では既に「道なき道」に踏み込んではいるのですが、それが「自分の判断」ではなく「先人の○○に則った判断」という名前だけを背負い、しかもそのことに自分でも気付かないため、そのような判断はしばしば単なる「責任逃れ」に陥ってしまうように思います。俺のせいじゃない、先人の○○の判断に則っているだけなんだから何かあったらそれは○○の責任であって俺は何も悪くない、といった感じで。