城の崎ストーカー

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 道ばたではねられて、死んでいるいる動物。飛び出した動物が悪いのか、はねた運転手が悪いのか・・・・道路を造った人が悪いのか・・・・・人類が悪いのか? 人間と動物の間の文化レベルがここまで違ってきてしまうと何とも言えないですよね。
 でもさ、結局の所、人間の生活が他の動物へ危害をもたらしていることは事実。自分がけがをさせてしまった動物くらいは何とかしてあげたいですね。そんなこと、一生のうちで何回もあることじゃないから、1回くらいは、ね。

人間の責任と動物の責任(ひぽぽの平穏な日々 1998年4月26日)

「文化レベル」という表現が面白いと思います。人間にとって自動車は日常的な存在で、人間自身が作ったものであることからあくまでも自分自身のコントロールの内にある(と思われている)けれど、犬の目には自動車はある種のオーパーツに近い「未知の脅威」に映っているのかもしれません。人間と共に暮らしている犬にとっては自動車もまったく見たことがない存在ではないでしょうが、それが道路上の遭遇で、しかも相手が回避不可能なスピードで突進してきた状況ともなれば、もはや避けようのない運命として死やそれに近接した状況を受け入れるしかなく、人間のようにそれを「社会的に」回避する方策を取ることもできません(犬に対しては道路交通法等が人間と同じようには適用されません)。

 この話を目にしてふと思い出したのが、志賀直哉の古典短編小説『城の崎にて』と、ソ連のSF作家ストルガツキー兄弟のSF小説『ストーカー』(タルコフスキー監督の映画化作品で有名)のことです。まるでかけ離れているように見える二作ですが、よく考えるとこの両者は、異なる生物種同士の非対称的な遭遇によって発生するアクシデントを主題的に描いている点で、意外とプロットの構造が似ているように思います。人間や動物が圧倒的に隔絶した(哲学的?に言えば「超越的」ないし「非対称的」な)レベルから押しつけられた巨大な災厄によって生死の運命が左右され、しかも押しつけた側は特に意識しない限り、そのことに気付くこともありません。
 ただ、『ストーカー』がもっぱら運命を押しつけられた人類の視点に定位して物語が語られ、人智で解明できない不可思議な現象を引き起こす謎のガジェットを落としてそのまま去っていった側(異星の知的生命体?)については、その存在すら作中ではほとんど語られていないのに対して、『城の崎にて』では一人称主人公の「自分」が、非対称的な当事者双方の視点を入れ替えながら一連のエピソードを語っていきます。山手線の電車に跳ねられて城崎温泉に養生に来た「自分」は、電車という近代文明の産物によって脆弱な肉体にダメージを受けましたが、恐らく電車の方は何等のダメージも受けていないでしょう。そんな非対称的な関係の劣位に位置していた「自分」ですが、療養地の城崎温泉を散策している時にはその関係性が反転して、周囲の小動物に対して「自分」が非対称的な関係の優位に立つことになります。特に、いもりを驚かすつもりで石を投げたらその石が当たっていもりが死んでしまったくだりは、電車に当たって死ぬかもしれない目に遭った「自分」が、他の小動物に対しては簡単に電車の立場に立つことが出来るという立場の反転を、如実に示しています。小説『ストーカー』の原題は「路傍のピクニック」、つまり屋外のピクニックに来た人間が路傍に捨てていったゴミも、その地に生きる虫にとっては未知の恐るべき物体になり得る(そして作中の人類はその虫に相当する)という状況を指し示していますが、城崎温泉の「自分」は、“ピクニック”で何の気なしに路傍に投げた石がいもりにとっては生死を分かつ運命的な災厄になってしまい、しかもそれを引き起こしたのは他ならぬ「自分」であるという、皮肉な立場の逆転を経験することになります。

 なお『ストーカー』では、謎のガジェットによって様々な未知の現象が発生するために、そのガジェットの落下地点周辺は封鎖されて立入禁止区域となっており、その区域は「ゾーン(Зона)」と呼ばれています。自動車という異形の巨大な力によって犬(やその他の動物)がいつ跳ねられてもおかしくない道路もまた、犬にとっては人間が作り出した「ゾーン」だと言えるかもしれません。城崎温泉の「自分」は、さしずめ散策中の自分自身が小動物との力関係の違いによって、身の回りに一時的な「ゾーン」を形成していたというところでしょうか。さらに「ゾーン」という名が、かのチェルノブイリ事故に伴って設定された原発跡地周辺の立入禁止区域と同じ呼び名である(それ故に『ストーカー』もしばしばこの事故と関連付けて語られる)ことを合わせて想起すると、人間と他の動物の間だけでなく人間社会の中でも生み出される「文化レベル」の違いについて、いろいろ考えを巡らせたくなります。