道なき道を行く

「判断力」だけでなく、「洞察力」というのもある。
どう違うか。
「判断」とは右の道へ進むか、左の道へ進むかを決めることじゃないか?
「洞察」は予知を含むのではないか?
と言うと、考えが足らないなあ~@^0^@ と、おっちゃん。
う~~む…。
ヒントをあげよう。2つ3つのものから選ぶのでは未来の問題は解決しないんだよ。
おっ、現代哲学ですね。(^_^;)
Yes、No、 では選択肢が2つしかない。
+1、0、-1、では選択肢が3つしかない。
選択肢はn値で考えるんだ。nは無限大。

わかったような気がする。
右の道か左の道か、ではないんだね。
どこに道があるのか、知るところから始まるんだ。
道でないところも、通れる可能性はあるしね。

パズル思考。 > kuu (風茶房 日々雑記 2005年7月4日)

 有限の選択肢を想定するのは、現実的にはロールモデル(判断や行動のお手本となる先人の人格モデル)を選択するという思考の道筋を通ることが多いんじゃないかな、と思います。ロールモデルは必ずしも実在の人物ばかりでなく架空のキャラクターから採られたり、特定の個人ではなく一般的な「こういう職業の人」「こういう立場の人」みたいな形を取ることもありますが、ともあれ「このような場合こういう人ならどういう選択をするか」というモデルを頭の中で何人か想定して、その中で自分自身は誰のように判断・行動するか、というような選択が行われます。
 そのようなロールモデルがまったく想定できない、少なくとも目の前の状況には誰のモデルも当てはまりそうにないという場合には、もはや「誰のように」というお手本を抜きにして、自分で一から「自分はどうするか」を考えなければならなくなります。道なき道を行く、と言えばかっこいいのですが、実際にはこの選択は結構しんどい。何しろ「本当にこれでいいのか」という基準が何もないところで先に進まなければならないので、ついつい不安になってしまい、無理をしてでも先人のロールモデルっぽいものを強引に当てはめて、自分のガイドとしたくなります。
 でも、そうして我流の曲解と強引な見立てによって援用されたロールモデルは、たぶんもう元の人格モデルの形とは似ても似つかない、というより元の人物・キャラクターの名前だけを借りた「自分自身だけの判断」になります。そういう意味では既に「道なき道」に踏み込んではいるのですが、それが「自分の判断」ではなく「先人の○○に則った判断」という名前だけを背負い、しかもそのことに自分でも気付かないため、そのような判断はしばしば単なる「責任逃れ」に陥ってしまうように思います。俺のせいじゃない、先人の○○の判断に則っているだけなんだから何かあったらそれは○○の責任であって俺は何も悪くない、といった感じで。