裏紙

静電プリンタの中で紙づまりが起こった。で、これが丁度ドラムの部分でユーザで解体不可能、すなわち取り出し不可能な状況に陥った(;_;)。だいたい、紙づまりで取り出し不可能な状況に陥る設計に閉口せざるを得ない点もあるが、そうまでして裏紙使用を徹底したいか?片面が印刷されている再利用紙を使うと、静電気で二重に紙を巻き込んだり、紙づまりが起きやすくなるのは目に見えている。だから紙詰まりは当然、リスクとして計算済でなければならない。環境対策にかかるコストのうちなのだ。「詰まらないような紙を選別しろ」と言われた日にゃぁ、ねぇ…。トップ命令だからといって、単にその通りに働くのはワシのような下っ端で十分だと思うんだけど。

六波羅日報 1999年9月17日

 会社によっても事情は違うでしょうが、今では違う理由で「むしろ裏紙使うな」と言われることもありますね。主に裏紙を経由した思わぬ情報漏洩のセキュリティリスクとかプライバシー保護みたいな方向で。

初雪とアジサイ

普通アジサイは夏の訪れとともに枯れてしまいますが、高原地帯は気温があまり上がらないせいか、枯れずに夏を越し秋まで咲き続けます。紅葉とアジサイ、時には初雪とアジサイという一風変わった組み合わせが見られることもあるんです。ガクアジサイ・ツルデマリ・ヤブデマリ、仲間の品種も高原一帯で見られますが、土壌に鉄分が多いためどれもみんな青い花が咲きます。一度赤い花を咲かせたいと思っているんですけどね・・・。

森のシンフォニー オーナーの日記 2000年7月13日

 紅葉とアジサイ、初雪とアジサイ……夏涼しい土地に住んだことのない私には、なんだか季節感が狂ってしまうようなシュールな光景に感じられますが、そういう風景がごく自然に生まれる風土もあるんですね。逆に、そういう土地で生まれ育ってごく自然にそういう景色を見慣れた人が平地に出てきたら、「なんですぐアジサイ枯れてしまうん?」と思ってしまうのでしょうか。うーむ、そう考えるとなんだかこういう風土の違いって、死生観にも微妙に影響が出そうです。和辻哲郎の風土論みたいな話ですが。

「あってはならないこと」

「あってはならないこと」ってなんでしょ?

 小生の馬鹿頭でいくら考えても,この言葉は理解不能なんです。「在る」と「無い」の反語で成り立っている,この言葉は,奇妙な語感を小生に与えます。
 「あってはならない」と思うのは人様の勝手ですが,現実世界では,思っているからといって,そうなるわけもないし,また期待していたら,人類はとうの昔に絶滅していたことでしょう。「なにがあっても」対処してきた先祖達のおかげで,こうして今の小生の存在があるのです。
 事故や事件の度に,この言葉が繰り返されます。決まって,こういう言葉を吐く人々は,現場責任者ではなく,上位管理者達です。これらの管理者たちは,己の精神世界で夢を見ているのでしょうか。そして,きまって,こういう時に聞かれるのが,現場の危険考慮の意見具申が受理されなかったとか,受理されても実行の変更がなされなかったという話です。
 負けてはならない,降伏してはならない,,,ではなく,「負けるはずがない,降伏などあってはならない」だった,あの敗戦から何も学んではいない”いんちきエリート”達が,再び,この国を敗戦へと導くのです。(瞑目)

kameのうわ言 2001年07月27日

「あってはならないこと」という表現の意味を構成する論理構造には、現実に生起した事象の世界とは別に、一種の可能的世界のレイヤーが重ね合わせられているのだろうと思います。現実に「aという事象が『ある』」世界(仮に「世界A」と呼びます)がある一方で、その上に仮想的な「aという事象が『ない』」世界(こちらは「世界A'」)が、あり得た可能性として重ね合わされ、その二つの差分によって、「世界A'」でもあり得たはずのこの世界が実際には「世界A」になっている、これはよくない、という認識が生まれます。
 こういう形で世界を認識する方法は、必ずしも夢物語だとばかりは言えないところがあります。例えば法律として記述されている社会規範は、単に「あれはいけません」「これはいけません」という都度都度思いついた個別の規範命題(禁止を含む)をアドホックに書き並べただけのものではなくて、必ず「法体系」としての全体的な整合性・体系性を意識したものとして構想されます。もちろん現実にはある法律と別の法律が矛盾する事態が生じ得ますが(何しろ現実に法律を作っているのは神ならぬ身の不完全な人間なのですから)、立法の原則としてはそうなります。それは、法体系が全体として「理想としてあるべき世界」の構造を指し示すという側面を持っているからです。もしこの法体系が完全に遵守され逸脱されることがなければ、人間社会は軋轢のない完全に秩序だった理想的な状態になるだろう……という、一種のあるべき理想社会を記述した「世界A'」の設計図が法体系であり、現実に生起している「世界A」の状態は、法律的にはこの「世界A'」に照らし合わせた時に「世界A」の中に見られる差分として認識されるのです。
 ただし、法体系において想定される「本来あるべき世界」としての「世界A'」は、現実には「○○すべし」よりも「○○すべからず」というネガティブリスト(言い換えれば原則自由・例外禁止)という形式で記述されることが多いかと思います。直接的な表現でなくとも、「もし○○したら××という罰則が適用される」という記述があれば、それは間接的に「○○すべからず」という法意志を指し示していると考えていいでしょう。

「あってはならないこと」の問題点とは、「ある」(世界A)と「ない」(世界A')が一つの命題の中に同居していること自体ではなく、むしろこの命題における「ない」(世界A')の妥当性、言い換えれば言外に規範的に示されている「本来あるべき世界」のビジョンの妥当性の部分にあるのではないかと思います。とりわけ、「世界A'」の規範が現実的にはとても遵守できるような状態では無かったとしても、なお遵守できなかった者を機械的に「世界Aを作りだした者」として罰する社会構造や、さらには「世界A'」を遵守できない状態を作りだしているのが他ならぬ「世界A'」の立法者・施行者自身であったとしても、なお罰せられるのはもっぱら下々の「世界Aを作りだした者」のみであるような社会構造がある場合、そのような「世界A'」の妥当性は疑問視されることになるでしょう。そのような場合、問題は「世界A'」の内在的・静態的な記述の中だけに探っても見つけることが出来ず、むしろ「世界A'」を取り巻く周辺的な事情(「世界A'」成立の経緯や、「世界A」の中における「世界A'」の実効的・動態的運用状態など)こそが主題的に問われるべき問題となります。

クレヨンポップ

 去年デビューしたK-POP女性グループのCRAYON POP(クレヨンポップ)がももいろクローバーZに似ていると言うので、また例によってパクリだなんだと言われているそうです。
 とりあえずPV(韓国ではMVと言うらしいですが)を見てみました。

○ Bar Bar Bar(パパパ)

 うーむ。確かに一見すると「あーももクロだー」という感じはあります。ジャージとか色分けとかの表面的なところもまあそう言えなくはないんですが、むしろ今までの韓国のガールズポップによく見られた路線とはまったく違う、意図的に安っぽさというかB級っぽさを狙っているコンセプトが「似ている」と思わせるのかもしれません。「江南スタイル」のPSYによくなぞらえられているというのもむべなるかな。
 でもクレヨンポップは最初からこの路線だったわけではないそうで、デビューした頃のPVはこんな感じでした。

○ Saturday Night

○ Bing Bing

 あーなるほど、といった感じです。韓国のガールズポップグループって、割と年上のお姉様たちが成熟したダンサブルポップを展開しているのが多いと思うのですが(大ざっぱな表現だなあ)、元々のクレヨンポップ(いまミスタイプで「ケロヨンポップ」って打っちゃったよ)はたぶんその予備軍と言いますか、K-POPのお姉様方の境地を目指している発展途上のワナビーなミドルティーン、といった感じのコンセプトを狙ったように見えますね。でもこの方向性はいまいちウケが良くなかったようで、いきなりヘルメットやジャージ姿や直列5気筒ダンスに方向転換してB級的な話題性を狙いに行ったということでしょうか。とはいえ、方向転換と言っても最初から成熟途上の少女というコンセプトは持っているので、180度ガラッと方向を変えたというより、元の路線にB級度やネタ度を大幅にトッピングした感じではあります。まあ、そのトッピングの中にももクロ成分もたくさん入っていたんでしょう。
 ただ、元のクレヨンポップの路線が舞台衣装などで意図的に統一感を排して5人のバラエティ性を演出していたのに対して、今の路線ではグループとしての意匠の統一性が増して、かえって他のK-POPグループ等に似かよってきたような印象も受けるようになったのは、ちょっと皮肉かもしれません。

○ Saturday night - Music Bank

 こういうてんでばらばらなステージ衣装でダンスがシンクロしているというのも、『ウエストサイド物語』のガールズ版みたいで面白いと思うんだけどなあ。


【関連】
CRAYON POPはももいろクローバーZを越えられるのか? ─ Kstyle PICK UP 2013年8月19日

生活の知恵

 貴方が子供のころ遊んだ「かくれんぼ」に、次のようなルールはありましたか?
「かくれんぼ」の最中に、鬼が「アゴースアゴース3べん呼んだらおーに(鬼)」と大声で唱えたら、すべての参加者は鬼柱に戻らなければならない。3度唱え終わるまでに戻ることができなかった人は、強制的に次のゲームの鬼とされる。
「かくれんぼ」では、鬼がすべての人を見つけるまで次のゲームを始めることができません。これは裏を返せば、先に見つけられた人は、それまで遊ぶことができないということです。10~20分なら、それは仕方がないことでしょう。しかし一時間近くも見つからないのは、ちょっと問題です。見つからないにもほどがある。ほかの人のことも考えろっつうことになるわけですね。
「アゴース」は、このような問題が発生したときに使われていました……。

 で、先日、そんな話を東京の人にしたら「知らない」と言われたんですけど、これって福岡ローカル(もしかしたら飯塚ローカル)のルールなんでしょうか?

くるくるくりりん 雑記帳 1999年9月24日

 基本ルールに則って進行するゲームにおいて、そのルール故にゲーム進行の不都合が生じた場合に備えて、一時的に不都合を回避するための補正ルールが、いつのまにかローカルルールとして発生・定着している……というのはなかなか面白い話だと思います。社会の中で自然発生的に定着した生活の知恵とでもいいましょうか。