夏のエアコン

……職場は冷房が効きすぎている。氷みたいな風がパソコンを触ってる腕にひゅーひゅー 吹きつけてくるし、机に手を触れると、冷蔵庫に入れておいたようにしーんと冷えてるし。 でもばにの席周辺が「寒い」としか言いようのないくらい冷えていても、すぐ隣のシマでは 暑くてうちわを使ってる人もいる。空調が古いからしょうがない、という話だけど、昔はもっと ましだったんだろうか、それとも昔はこれが当たり前だったんだろうか?

ばにの日々 2001年7月4日

 職場や地域によっても異なるでしょうが、この日記が書かれたちょっと後の2000年代前半からは、職場の服装をノーネクタイ等の通気性の良い状態に緩める「クールビズ」が少しずつ広まり、それに連れて職場の冷房の温度を高めに設定する傾向も見られるようになりました。主に地球温暖化や都市のヒートアイランド現象などといった問題意識に呼応したもので、それまで職場の冷房が強すぎると思っていた人にはちょうどいい朗報になったことでしょう。ただ営業等で外出の多い人だと、暑い思いをして外回りから自分の職場に帰ってきてもあんまり涼んだ気にならないということもあるようで、それぞれのワークスタイルによっても感じ方は異なるかもしれません。先の大震災以降は原子力発電所の運転停止に伴う節電という意味合いから、こうした夏場の省電力が強調されることも多くなっていました。
 その一方では、近年都市部を年々少しずつ夏の平均気温やピーク時の気温が高くなってきて熱中症の危険性も増していることから、節電は大切だけど無理をしすぎずに必要な時にはエアコンを活用しようという、相反するようなメッセージも積極的に出されるようになっています。特に今年は記録的な猛暑ということもあり、あまり積極的に節電を打ち出すようなケースは以前に比べてむしろ少なくなっているように思います。

8月15日

 8月15日は一般的に「お盆」とされることの多い日付ですが、元々のお盆は「旧暦の7月15日」であり、明治時代に暦法が旧暦から新暦に切り替わった時に、地域によって新暦のどの日付に当てるかの相違が生じたため、今でも地域によっては8月15日以外をお盆とする場所があるそうです。

◆現在の日本をみわたすと、たしかにことなる「3つ」のお盆の時期が見られます。
「7月盆」「8月盆(月遅れ盆ともいう)」「旧盆」の3つです。……
(略)
◆なぜお盆の時期が「3つ」もあるのか?
結論からいえば、明治時代のはじめに旧暦が新暦に切り替えられたとき、全国各地域で対応のちがいがあったからなのです。
江戸時代までの日本の暦は全国等しく「旧暦」(太陰太陽暦)で、江戸時代末期には幕府の定めた「天保暦」という暦が使われていました。当然お盆の時期も、「旧暦・7月」で全国的に一致していました(地域により若干のズレはあった:「特別なお盆」参照)。
明治時代になると、新政府は暦を国際標準化するため「新暦」(太陽暦)の採用を決め、旧暦の明治5年12月3日をもって新暦の明治6年1月1日とする暦の切り替えを行いました。
◆さて、新暦太陽暦)になると困ったことが起きました。
それまで旧暦で行われてきたお祭りや年中行事の日程をどうするかという問題に、各地域が当面することになったのです。
(略)
◆時間のかかった”切り替え”
注意すべきは、旧暦→新暦の切り替えは、明治政府の思惑通りに一挙に進んだわけではない、ということです。
実際には行事により、また地域によって、旧暦と新暦が長く使いわけられてきました。
「お盆」にしても、現在の新暦8月盆が全国的にある程度定着したのは、戦後になってからのことです。

お盆は「いつ」か? その1 ─ 「3つ」のお盆(「盆踊りの世界」)
 伝統的には旧暦の7月15日に当たる中元節の日に行われていたが、現在は地域によって異なっている。8月15日(月遅れの盆)を中心として行うところが多いが、東京など関東圏の一部では7月15日を中心に行われる。
 東京と地方とで盆の時期をずらすことで、縁者一同が集まりやすくなる。皆でゆっくり先祖の供養をするために、このような形が定着したと思われる。農作業が忙しい時期を避けるために、東京と地方とで盆の時期がずれたとする説もある。お盆の最初の13日を「迎え盆(お盆の入り)」、最後の16日を「送り盆(お盆の明け)」という。

東京の「お盆」はなぜ早い? 意外と知らないお盆の基本 (日本経済新聞 2013/8/14)

 ところで私は、8月のお盆が戦後になって定着したという話と、その中日である8月15日が終戦記念日として定着したことの間には、結構浅からぬ関係があったのではないかと思っています。
「先の戦争はいつ終わったのか」の解釈を巡っては、以前より8月15日を終戦の日とすることに対する異議がしばしば提起されることがありました。佐藤卓己氏の『八月十五日の神話 ─ 終戦記念日のメディア学』(ちくま新書、2005年)の紹介ブログ記事より一部引用します。

 最初に述べたように、「8月15日=終戦記念日」は決して必然性のあるものではない。日本政府がポツダム宣言受諾を英米に回答したのは8月14日。「大東亜戦争終結ノ詔書」が書かれたのもこの日である。大本営が陸海軍へ停戦命令をだしたのは8月16日。「終戦日」の設定としてグローバルスタンダードになっているのは休戦協定が結ばれた日である。先の戦争の場合9月2日であるため、これに従って多くの国は9月2日を「VJデイ」(対日戦争記念日)としている(旧ソ連、中国、モンゴルは9月3日)。東南アジアの諸国も日本軍の武装解除の日、すなわち九月を終戦としている。8月15日という日は、前日に録音された天皇による「終戦の詔書」朗読が日本国民向けてラジオ放送された日でしかない。
 戦後しばらくは新聞、雑誌、ラジオ等でも、ポツダム宣言受諾の日である8月14日が終戦の日とされていた。しかし、占領が終了後、終戦10周年のイベントが行われた1955年ごろから8月15日の「玉音体験」が神話化されはじめ、そして1963年、第二次池田勇人内閣で「全国戦没者追悼式実施要綱」が閣議決定されて8月15日が法的に終戦記念日となったのである。8月15日と終戦記念日の結びつけは根拠がないだけでなく、歴史も浅いものであった。

記憶の政治学――なぜ8月15日が終戦記念日になったのか(リスタート 2011/8/15)

 なぜ8月15日が終戦の日として定着したのかについては、保守派にとっても進歩派にとっても玉音放送の行われたタイミングが史観・国家観の画期として相応しいものであったこと、戦前の1939年から既に戦没者追悼式の全国中継放送が毎年8月15日に行われていたこと、そして国民全体で参加した「儀式」として玉音放送を捉える感覚が集合的記憶として定着したこと等が、上掲書では論じられているようです。
 私はこれに、「お盆」という旧来からの宗教的・伝統的慣習がうまくマッチした可能性を考え合わせたくなります。

 正式には「盂蘭盆会(うらぼんえ)」といい、旧暦の7月15日を中心に行われる先祖供養の儀式のこと。先祖の霊があの世から戻ってきて、また天に帰っていくという日本古来の信仰と仏教の行事とが結びついた行事だ。

上掲日経記事

 先祖供養というお盆の意義と、戦没者追悼という終戦記念日の意義が重なり合い、またどちらも「儀式」的側面の強い参加型「イベント」であったことから、8月15日という日付に対して人々がもつイメージが、「先人の魂を弔う儀式を行う日」という宗教的な部分で上手いこと結節したのではないでしょうか。
 それに加えて、もともと東京以外の地域ではお盆を新暦8月15日に行う場所が戦前から比較的多かったというのも、要因の一つとして考えられるかもしれません。戦前でも既にある程度地方から都市への人口流入はありましたが、それが本格化して過密や過疎が問題視されるようになったのはやはり戦後の高度経済成長以後のことであり、それ以前の日本は都市労働者よりも地方で農業や漁業を営む人口のほうが多数派を占めていました。また旧陸軍の部隊は地域ごとの連隊区を単位とした部隊編成が基本となっており、徴兵や在郷軍人会などもこうした地域別に編成・運用されておりました。つまり、戦後地方に住み続けている人はもとより地方から都市に出てきた住民にとっても、「お盆」になったら帰省して親類縁者で集まって祖先を供養する儀式をとり行うという契機が、宗教的にも旧軍隊的にも8月15日に集中しがちな傾向があったのではないでしょうか。

コミュニケーション

 ちょっと古い話題ですが、三菱重工が「家庭用サービスロボット」として開発した「wakamaru」の話。

いやぁ、三菱重工業さんは分かってらっしゃる。
本田技研さんとかソニーがやっていることも間違ってはいないが、ホントに重要なのは「二足で歩くこと」ではないんだ。以前広井王子氏もおっしゃっていたが。
(略)
「機能に関してはいろいろ考えていますが、それよりも、生活を楽しく便利にしてくれるという部分を大事にしたいんです。普段は家の中をフラフラしていて、たまに目が合ったり、ご飯を食べていると寄って来て『食べすぎ』って言ってくれるとか(笑)。そういうロボットを目指しています。おなかがすいたら(バッテリーが少なくなったら)自分で充電器のところに行って充電するので、手もかからないんですよ」(プロジェクトマネージャーの大西さん談)

KATTZノート on the Web 日記 2004年2月15日

 2000年代前半には、既にロボットも純粋に「機能」を目指すだけではなく、プラスアルファの剰余的なコミュニケーションを含むような方向性を志向していたんですね。もっとも人間様の間ではこの頃から、「コミュニケーション能力」ばかりをやたら突出して重視する世相が少々疑問視されつつあったようにも記憶しておりますが。

 

【関連】
wakamaru[ワカマル] : 三菱重工業(「ものづくりの挑人たち」)

いきなり防人の話から

 無線LAN環境をちょいと改善したところで、久々に140字(Twitter)以上の文章を書く練習を再開し、だらけ気味の生活もちょっと心機一転……と行きたいところですが、こう暑いとひたすら気分もぐったりしてしまうもの。

 とりあえず、最近は『戦姫絶唱シンフォギアG』の放送で多少なりとも自分の気分を盛り上げるようにしております。いやー面白い。数は多くないけれど非常に熱心なファン(通称「適合者」)がついている作品でして、私も「適合者」とまではいかなくとも、前作の第一期から引き続き楽しんで見ております。とにかくハッタリの効きまくった作品で、「歌いながら戦う」コンセプトや独特の台詞回しなどといった一見奇矯なギミックを交え、作品の尺の割には消化不良に陥りそうなくらいに多量の作品世界情報を含みながらも、物語の骨格はあくまでもストレートな熱血友情ヒーローものを踏襲しているため決してストーリーを見失うことも“ネタ”のみに溺れることも無いという、ちょっと不思議な風合いの作品です。ビッキーの運命や如何に。

(あ、SAKIMORIさんの話書いてないや。)

 

カクレキリシタン

 1549年、鹿児島に上陸したフランシスコ・ザビエルによって始められたキリスト教の布教は、日本の北端、当時の蝦夷にまで及び、日本文化に足跡を残すこととなった。
 しかし、豊臣秀吉によって始まったキリシタン弾圧は、1614年の徳川家康のキリシタン禁教令によって徹底され、65年間のキリスト教の痕跡は完璧なまでに払拭され、おびただしい殉教の記憶だけが、民衆の心に遺された。

Iseky's HOMEPAGE ─ 「かくれキリシタン」を訪ねる旅 Part 1 2005年8月8-10日

「殉教の記憶」は、往時の隠れキリシタンの行動や行事を反映した文献や遺物・遺構として、その姿をとどめています。隠れキリシタンというと長崎や熊本のイメージが強いのですが、実際には全国でマリア地蔵やマリア観音などといった遺物が点在しています。
 例えば木曽路の旧宿場町である奈良井宿には、以下のような「マリア地蔵」があるのだそうです。

奈良井の宿場は中山道でも最も難所と言われた鳥井峠をひかえ、中山道11宿中最も栄えた宿場だそうだ。宿場の保存に力を入れているだけあって、街並みは江戸の宿場の古さを保っている。又家の中も極力古い姿を保つことに力を注いでいるように見えた。
……
奈良井宿には寺が多い。印象に残ったのは大宝寺の「マリア地蔵」。どういう訳か首がない。抱かれた子の持つ草が十字架のようである。

こんちゃんの雑記帳 ─ 木曽路の旅 1999年10月19日
残念な事にお地蔵さんのお顔、抱かれた乳児の顔、いずれも在りません。
明治の廃仏毀釈の騒動で、壊されたのでしょう。
そして、竹薮の中に捨てられてしまいました。
この、木曽谷の美しい奈良井でさえ、狂気が駆け巡ったのでした。
(略)
この木曽谷には「隠れキリシタン」と呼ばれる石仏が何体も発見されているのです。

木曽町には「折畳マリア象」、大桑村の天長院にも子育て地蔵がマリア像である・・・、いわれています。
大桑村の妙覚寺にはマリア観音像は千手観音です、ただその左手に持った”鉾”の先端が十字架なのでした。
(略)
6世代も7世代も引き継がれると、パードルの教えは木曽谷の土着の信仰に融合した事でしょう。
袈裟の下に聖衣を着せても、蓮の茎の先端を十字架にしても・・・・、子安地蔵に変わりありません。
まして、ローマ法王に認められた神父に接する事は全くありませんでした。
キリスト教は既に土着化し、十字架の上のキリストの教えは記憶の彼方に霞んでしまった事でしょう。

貧しい生活、苦しい日々の中で子供を失う事が多々ありました。
祖先が拝んだ事であろう、「キリストを抱いたマリア像」が数世代を超えて、
何時しか「賽の河原で赤子を抱き上げて下さるお地蔵様」に変換したのでしょう。
人々の悲しみを解ってくれたのが「マリア様の面影を残した子安地蔵」であったのでしょう。

これはもう「隠れキリシタン」というよりは「潜入キリシタン」とか「土着キリシタン」と呼ぶべきでしょう。
ベースは地蔵信仰であり、信仰の原点は「乳児を失った悲しみ」の救済でありましょう。
「パードルが盛んに木曽路を布教した」そんな十字架やマリアの記憶が、
数世代、数百年を超えて、石仏の小さな表現に残されたのでしょう。

奈良井宿、マリアの面影(土着キリシタン) ─ 仮想旅へ 2011年11月21日

 また長崎の島嶼の一部では、現在も民間信仰として土着化した儀式を継承している人々がいるそうです。こうした現存の「カクレキリシタン」は、元を辿れば安土桃山時代に渡来したイエズス会宣教師等が日本に広め、織田信長や一部の大名が許容したことで一時定着したカトリック信仰に由来しますが、その後の歴史的過程で外の世界との接点を閉ざされ、自らの信仰をも隠し通さなければならなくなった経緯が長い間続いたことで、次第に信仰そのものが独自の形態へと変容していきました。今では正統的なカトリック教会とのつながりを持たない、日本独自の民間信仰のひとつとして存在します。

 ……黒崎と並んで有数のカトリック地区である出津に住む中山氏は、長崎県のなかでも最も繰返しマスコミ関係者、研究者、カトリック関係者の訪問を受けた人物のひとりである。中山氏は彼らから「あなたがたはもともとカトリックなのに、信仰の自由が許された今、なぜ教会に戻らないのですか」という質問を繰返し繰返し受け続けた。
 中山氏が「カクレキリシタンとカトリックとは神は同じだが」という時、その言葉は昔から伝えられてきたものではなく、近年の外来者との接触の中で形成されたものである。本音は「先祖の道を務めるのが信念」という言葉に端的に示されている。
 出津に限らず、すべての地域においてカクレの信仰の根本は、「長い潜伏時代を経て意味内容はほとんどわからなくなってしまったが、先祖が大切にしてきた信仰の形だけでも伝えていくのが子孫としての務めである」という信念である。信仰の表現方法は異なっても、救われていることには変わりはないと確信している。もしそうでなければ、御先祖様たちは救われていないことになる。

(宮崎賢太郎『カクレキリシタン オラショ ─ 魂の通奏低音長崎新聞社、2001年、p.270-271)
 ……現在の日本の仏教徒は日本仏教徒なのであって、本来の原始仏教徒ではないのである。現在のカクレキリシタンは御先祖様を大切にし、さまざまな神仏を拝み、タタリを恐れるカクレキリシタンであって、本来のカトリックではないのである。
 カクレキリシタンにとって大切なのは、本来のキリシタンの教えを守っていくというのではなく、先祖が伝えてきたものをたとえ意味は理解できなくなってしまっても、それを絶やすことなく継承していくことであって、それがキリスト教の神に対してではなく、先祖に対する子孫としての最大の務めと考えているのである。カクレはキリスト教徒ではなく、祖先崇拝教徒なのである。
(略)
 ラテン語の訛ったオラショや、洗礼、クリスマス、復活祭などに比定できる行事を伝えているというようなことによって、いまもってカクレキリシタンはキリスト教徒であると見なしてはならない。仏教や神道、さまざまな民間信仰と完全に融合し、まったく別のカクレキリシタンというひとつの民俗宗教に変容している。

(上掲書、p.282-283)