シンデレ~ラに呪われ~る

 久しぶりに文明論めいた本を読みたくなって、中沢新一『人類最古の哲学 ─ カイエ・ソバージュ(1)』(講談社選書メチエ)を読んでいた。シリーズ講義録の第一巻として出版されたもので、レヴィ=ストロース等の構造主義人類学や南方熊楠の論考に依拠しつつ、世界を全体的秩序構造として把握するタイプの哲学的思考の端緒として、神話・民話を解釈していくというものだ。主に取り上げられていたのは、かぐや姫に登場する「燕の子安貝」のモチーフと「シンデレラ」の二つで、いずれもモチーフの取り扱い方や伝承の異説を比較しつつ、異なる文化の間で共通して語られている構造的要因を、人類の神話的=哲学的思考のアーキタイプとして摘出していくという流れで語られている。
 シンデレラ(サンドリヨン)の場合、現在のスタンダードと言えるシャルル・ペロー版と、出版されたのは後世だが物語自体はより古い型を残していると思われるグリム童話版、さらに他のいくつかの異なったヴァリアントを比較し、さらにはっきりと語りの変遷(異説の誕生)が跡づけられる事例として、北米大陸のフランス系移民を経由してペロー版シンデレラを知ったアメリカインディアンがその内容に飽き足らずに大規模な変容を加えたバージョンを紹介している。
 こうしたシンデレラの異説にはさまざまなものがあるが、シンデレラ/サンドリヨン(に相当する人)、王子様(に相当する人)、いじわるな継母と二人の姉(に相当する人)、影の薄いシンデレラの父親(に相当する人)など、人物の基本的な配置は多くの物語で共通しているらしい。その上で、それぞれの物語の中での役どころや重みづけの部分に、それぞれの異説が語られている文化の特徴的な影響が浮かび上がっているようだ。

 この観点から捉えると、『轟轟戦隊ボウケンジャー』Task.26「ガラスの靴」(『ボウケンジャー』はエピソードの話数を「Task.○○」と標記している)で語られた、新たな異説「シンデレラ」は、いったいどのような特徴を有しているのだろうか?

 

 2006年の東映スーパー戦隊シリーズ作品である『轟轟戦隊ボウケンジャー』は、戦隊30作目の記念作品と銘打って、過去作品と合わせた「シリーズ」としての売り込みが積極的に行われた番組だった。この点は35作目記念企画を謳い文句にしている現行作品の『海賊戦隊ゴーカイジャー』と共通しているが、『ゴーカイジャー』のようにドラマ本編の作中で直接過去戦隊を登場させることは無かった。具体的には、番組終了後に過去作品を紹介するミニコーナーが設けられたり、各種ショーイベントで『秘密戦隊ゴレンジャー』以降の過去作品との共演がしばしば強調されたり、オリジナルビデオ作品(東映Vシネマ)として毎年製作されているスーパー戦隊シリーズ恒例の「VS」シリーズ(現行戦隊と一年前の戦隊がひとつのドラマとして共演する企画)が、『ボウケンジャー』の場合には前作の『魔法戦隊マジレンジャー』ではなく『ボウケンジャーVSスーパー戦隊』という扱いになっていたことなどが挙げられる。この『VSスーパー戦隊』の形式は25作品目の『百獣戦隊ガオレンジャー』でも採られていた。
 本編のドラマの基本設定は、世界中に眠る危険な力を秘めた財宝「プレシャス」をめぐって、その力を悪用しようとする「ネガティブシンジケート」(単一の組織ではなく複数の組織の総称)と、人類のためにプレシャスを確保・保護しようとするサージェス財団のプレシャス探索チーム「ボウケンジャー」が相争うというものだ。言ってみれば『宝島』のようなお宝争奪戦のスーパー戦隊版であり(この点でもアニバーサリー企画仲間?の『ゴーカイジャー』とどこか似通った色合いになっているのは面白い)、敵組織との戦闘を組織目的にしていない珍しいタイプの戦隊である。ボウケンジャーの初期メンバーは例によってレッドを中心とした5人、後に追加メンバー1人が入るという構成になっている。この時期の戦隊レッドは全般に、チームを統率するリーダーというよりも未熟ながら熱意と行動力で他のメンバーを引っ張っていく“切り込み隊長”タイプが多かったが、本作のボウケンレッド/明石暁(通称チーフ)は、明確に皆の上に立ってチームを指揮・統率する強いリーダー型のキャラクターになっている。またチーフを含めほぼ全員が、ボウケンジャーに参加する前から既に何らかの分野でプロフェッショナルとして活動していたという設定になっている。

 

 Task.26「ガラスの靴」のエピソードでは、メンバーの中でチーフに次ぐ指揮権を持つサブリーダーのボウケンピンク/西堀さくらが実質的な主役となっている。彼女はもともと大財閥家に生まれたお嬢様として厳しい躾の下に育てられたが、自分自身の生きる道を探して家を飛び出し、自衛隊の特殊部隊にいたところをチーフにスカウトされたという経緯を持つ(本エピソードでスカウトの様子が語られている)。
 本エピソードで登場するプレシャスは、サブタイトルの通り「ガラスの靴」。この靴を履いた女性はなぜか夢遊状態で踊りだし、やがて昏睡状態に陥ってしまう。ネガティブシンジケートの一つ・ゴードム文明のガジャがこのガラスの靴を奪おうとするが、すんでのところでボウケンジャーに確保された。やむなく引き返すガジャは去り際に、「それはシンデレ~ラとかいう女の呪いがかかった靴だそうだ。 その靴を履いた者は、シンデレ~ラに呪われ~る、とか」と言い残した。
 ガラスの靴はサージェス本部に持ち帰られたが、夜半まで仕事を続けていたさくらの下に謎の女性が現れ、抗い難い力でガラスの靴をさくらに履かせてしまい、その途端さくらは突如として謎の舞踏会の場に迷い込んだ。その場では何人もの女性が一人で踊っているが、彼女たちは皆ガラスの靴を履いてそのまま昏睡状態に陥った被害者だった。やがて“王子様”が現れてさくらをダンスに誘う。舞踏会のダンスに合わせて、現実のさくらもまた夢遊状態で踊っていたが、それを見つけたチーフがさくらの目を覚まさせることによって、彼女は強制的に現実に引き戻された。夢の中の舞踏会で“王子様”と踊り続けて12時を過ぎると、そのまま昏睡状態から二度と目覚めることがなくなってしまうのだ。
 その後、ガラスの靴の伝承について調査して“王子様”の正体の見当をつけ、一計を案じたさくらとボウケンジャー一同は、次の晩にガラスの靴を放置して、謎の女性が現れるのを待ち伏せした。現れた女性は、シンデレラの伝承で「いじわるな姉」として登場するクロリンダ(この名前はペロー版「サンドリヨン」を底本にした19世紀イタリアのオペラ「チェネレントラ」が元になっているらしい)だった。彼女は“王子様”の命で、ガラスの靴を使って次々と女性を夢の舞踏会にさらっていく役目を昔からずっと続けており、他ならぬシンデレラもまた犠牲者の一人であったという。その役目を果たし続ける限り、醜い彼女もまた“王子様”のそばにずっと居続けられるという「幸せ」の中にいられる。その一心でクロリンダは新たな犠牲者を“王子様”のもとに送り続けていたのだ。
 だがさくらはクロリンダに、「シンデレラになれない女の子がみんな不幸せだなんて、誰が決めたんですか?」 と言い放つ。ただ“王子様”の命令に黙々と従って、多くの女性の犠牲の上に成り立つクロリンダの「幸せ」とは、いったい何なのかと。さくらもまた、自分自身の「幸せ」について考えてこなかったわけではない。彼女は、自分の本当にやりたいことを求めて家を飛び出し、自衛隊やボウケンジャーに身を投じる中でそれを探し求めてきた。かつてチーフがさくらを自衛隊からスカウトした時に、「誰にでも自分だけの宝がある。それは誰にも与える事は出来ない。自分で見つけるしかない。俺も探している。見つけてみないか、一緒に」と言った、その言葉の通りに。
 さくらは自らガラスの靴を履いて舞踏会の空間に行き、幸せを与えようとする“王子様”を拒絶した。いったんは危機に陥るさくらだったが、彼女のピンチを救ったのは、この空間に自分自身の「幸せ」などどこにもないとさくらに気付かされたクロリンダだった。さくらの反撃で舞踏会の空間は消滅し、クロリンダもどこへとも無く消え去り、意識を失っていた女性たちも目を覚ます。最後に残ったのは、“王子様”の正体であるガラスの靴の怪物だった。「君たちが夢見る幸せなんて本当はどこにもない。だから僕が幻を与えてあげるのさ」と言い放つ怪物も、幸せをただ与えられるまま待つのではなく自分で探すことを知っているさくら姐さんの敵ではありませんでしたとさ。
 めでたしめでたし。

 ……というのが、本エピソードにおける「ボウケンジャー版シンデレラ」のお話。女装チーフが「王子様のハートをゲットするのよ、アタック!」と、女装真墨と女装蒼太に向かって指パッチンをする冒頭の寸劇は決して「ボウケンシンデレラ」の本筋ではないので念の為。インパクトはそっちのほうが大きいけどね。
 それはともかく、この話におけるシンデレラのアレンジの面白いところは、通常であればどんな伝承でも類型的な悪役以上の域には出ない「シンデレラのいじわるな姉」が、メインのキャラクターとして掘り下げられていることだ。同時に、王子様もまた役どころがまったく変わってしまい、通常のシンデレラであれば物語のハッピーエンドを主導し「幸せ」を象徴するところなのに、ここでは無数のシンデレラ達を死の世界に誘う最大の敵役になっている。
 でも、これは単に元の「シンデレラ」をひっくり返しただけではない。ボウケンシンデレラの王子様に誘われた女性は、別に「不幸」になったのではなく、主観的・観念的には「幸せ」になったという見方も成立しないわけではない。ただ、その「幸せ」が事実上「死」と同じような意味合いになってしまっているということだ。

 先に紹介した中沢氏の本では、「シンデレラ」の基本的な物語構造として、王子とシンデレラに象徴される社会の分裂(今様に言えば「格差」)と、ガラスの靴やシンデレラの超自然的ドレスアップといった「異界(≒死者の世界)」的モチーフの媒介による分裂の修復・調和の回復が挙げられており、様々な異本も基本的にはこの構造を維持していると論じられている。王子の世界とシンデレラの世界が分裂から調和・融合に至るまでの道筋が本筋としてあり、その道筋を超自然的な「異界」が媒介するということらしい。この構造の中では、姉は庶民の世界から王子の世界へと移りゆく一般的な欲望の象徴、そしてシンデレラが調和に至る道筋の障害物になる虚栄心等の悪徳の象徴という役割になる。つまり「調和を阻害し分裂を固定化する要因」ということだ。
 ところがボウケンシンデレラでは、そもそもクロリンダはシンデレラが王子様と幸せになる道を妨害していないし、むしろ自ら推進している。そして王子様とシンデレラ達(複数)は、ある意味「幸せに暮らしましたとさ」という境域に至っている。これを構造として見た場合の、原典とボウケンシンデレラとの最大の違いは、王子様自身が「異界」の象徴であり、なおかつ人間は「異界」に居続けてはならないもの、人の世界に帰るべきものである、という観念がボウケンシンデレラの側にはあるということだ。元の神話や民話や民間伝承の世界でも、「異界」は媒介として働くことはあっても決して生きた人間がそこに居続けることは出来ない性質のものだったかもしれないが、ボウケンシンデレラではこの「異界」が単なる一過性・一時的な媒介であることを越えて、一つの定置された領域を形作っており、人間の領域と対置された上で「人間がいてはならない場所」として定義されているのだ。
 異なる世界をつなぐ媒介の役割をガラスの靴の代わりにクロリンダが務めた時、彼女の役割もまたこの構造の変化に伴って必然的に変化することになる(実際にはクロリンダのキャラクターから逆算して全体構造が作られているようにも思うが)。本作において、分裂の修復と調和の回復を象徴するビジョンとしての「物語最後のシンデレラ像」は、作中で菜月が読んでいたシンデレラ絵本のような「ドレスを着て王子様と並ぶシンデレラ」ではなく、「病院のベッドに横たわって二度と目覚めない被害者」または「舞踏会のホールで踊り続ける女性たち」(どちらも同一人物)である。クロリンダは、そこに至る道筋を整える媒介の役目を果たしている。
 のみならずクロリンダは、彼女自身また単なる抽象的な媒介としてだけではなく、かつて“王子様”とともにいる幸せを願い、今もそのために媒介役を務めている“人間”としても位置づけられている。確かに何百年も生き続けて“王子様”に生贄のシンデレラを運び続けているという点で通常の生きた人間とは異なるが(その点では「異界」に半分足を突っ込んでいる)、クロリンダの役どころの作中の意義は、彼女もまた異界の幸せに憧れる人間、異界から幸せがもたらされるのを待っている人間であるというところにもある。
 つまり、原典(といってもたくさんあるが)のシンデレラの物語構造を、
 「王子(人間) ─ 媒介(異界) ─ シンデレラ(人間)」
という三項構造にまとめるなら、ボウケンシンデレラは
 「“王子様”(異界) ─ 媒介クロリンダ(異界/人間) ─ シンデレラ達(人間)」
という三項構造になっているのだ。
 先の中沢氏の本によれば、原典における媒介としての異界は調和の回復に向けた一時的な働きをするだけの存在であり、恒久的な秩序はあくまでも人間の世界の中で打ち立てられるものとされている。先の三項構造全体を一つの塊と捉えるなら、間に入っている媒介は一時的に介入するがすぐに消えてしまう臨時の存在なのだ。
 一方のボウケンシンデレラにおいても、調和の回復はやはり人間の世界の中で打ち立てられるが、先の三項構造において異界(“王子様”の世界)がそれ自体として一応恒久的な秩序を打ち立てていることを考えると、この三項構造全体が最終的に人間の世界として総括されるには、異界の側が消滅しなければならない。
 この消滅を遂行したのが、物語後半であえて“王子様”の舞踏会に自ら入り込んださくらであり、さくらを助けるために介入したクロリンダだ。特にクロリンダは、それまで「人間」としての欲望のために「異界」との媒介に徹するという中間的な位置づけだった己の立場を捨て、媒介としての機能を生かしつつ完全に「人間」の側に、それも人間の世界に居続けるものとしての人間の側に立つことを決意した。さくらを助けるためにクロリンダが舞踏会の場に持ち込んだサバイバスター(ボウケンジャーの標準的な携行武器)は、この決意の端的な象徴となっている。人間は“王子様”の異界に入り込む時に人間の世界の文物を持って出入りすることは出来ないようだが、媒介たるクロリンダだけはそれが可能であるため、『ボウケンジャー』の作中世界における“現実的”な武器を異界に運び入れ、さくらが異界を破壊・消滅させることを手助けすることが出来た。夢の世界でいきなりクロリンダがふところからサバイバスターを取り出してさくらに渡した時、私はその描写の違和感にびっくりしつつ、強いカタルシスをも覚えた。それは、この(人間から見れば悪しき)異界が、まもなく人間の世界の文物の力でねじ伏せられ征服されるという予感がもたらした快楽だったのかもしれない。私もまた、異界という象徴をアクチュアルな現実認識としては分有しておらず、もっぱら人間の世界の中でのみカタルシスがもたらされることを期待する、ごく普通の人間の一人であるから。
 このように考えてみると、「ガラスの靴」のエピソードは、異界が積極的な意義を持たない現代においては「シンデレラ」の異説はこのような形にも変形され得るのか、ということの現れであるようにも思えてくる。

 

 本エピソードの脚本は、『ボウケンジャー』全体のメインライターでもある會川昇氏が手がけている。個人的には會川脚本というと『仮面ライダー剣』の後半のメインライターの印象が強く、奇跡頼み運頼みの解決には意地でも頼らず、どんな危機も人間の力で打開するからこそ感動もカタルシスも生まれるという作風を強く打ち出すことが多い人だという印象がある。
 また、もともと『ボウケンジャー』という作品自体、「冒険」というモチーフをキーワードにしつつ、チーフやさくらをはじめそれぞれの過去を背負ってボウケンジャーに結集したメンバーについて、自らの過去の生き様と対峙しつつ自分自身の生きるべき道を模索していくキャラクター描写の掘り下げが印象的な作品でもある。そのためボウケンジャーのメンバーは、チームとして結集はしていても互いに独立した自分自身の生き方やスタイルを確立している、「独立した個人の集まり」というイメージが他戦隊に比べて強い。
「シンデレラ」をモチーフにしつつも大胆にその構造を変形して、原典にある分裂の修復と調和の回復ではなく、まず何よりも独立して生きる個人の確立こそを重大視した「ガラスの靴」のエピソードは、そんな『ボウケンジャー』の(そして會川氏の)作品カラーがかなり強く出ている回のひとつではないかと思う。

 

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