名犬ジョディー

 たまには軽い文化論エッセイでも読もうかと思って本屋に入ったのはいいけれど、買ったのは『石橋湛山評論集』(岩波文庫)。いったいどこまでソッチ系の人やねん俺。
 まあそれはともかく、この評論アンソロジーの最初に収録されているのは明治45年の『問題の社会化』。問いの立て方は時代によって変化を余儀なくされるもので、時代の変化を無視して昔と同じ問いを立てることは無意味であるという趣旨の一文だ。主に政治的な「自由」の概念がどのように問われるべきかという観点から語られている。

 かつてドイツ社会民主党の首領にして、ベーベルの師であったウイルヘルム・リープクネヒトはアメリカのバルチモーアにおいて演説して「諸君は常に我らアメリカ人は自由を有すといって誇称するが、しかし自由とはそもそもいかなる価値を有するものであるか。誰かそれを着物として着得たものがあったか。誰かそれを家屋としてその中に住まい得たものがあったか。誰かそれを食物としてそれによってその胃の腑の要求を充たし得たものがあったか」と叫んだということであるが、我々はこの言葉の中に、なかなかの真理を含んでおることを思うのである。(略)彼はまたこういうておる。「自由とはただ総ての希望を覆い包める伝習的の言葉にすぎない」と。即ち彼の意味は、自由自由というてもただ漠然と言葉の上で自由というたのでは、何の役にも立たない、我らに必要なのはその具体的の内容である、何をする、どうする、これが今日の問題であるというのである。……
 (略)
 けだし「権利」もしくは「自由」とは「束縛」に対して初めて意義を有する消極的の言葉である。リープクネヒトがいえる如く、そは衣服ともならず、家屋ともならず、食物ともならない。その役目はただ「束縛」を打ち破る武器である。されば一たび「束縛」が打ち破られて、仕事が進んで積極的に我が世界を打ち立てることになった時には、「自由」の武器はもはや役に立たない。而して我々は何ものか他のものを持って来ねばならぬ。

石橋湛山「問題の社会化」、松尾尊兊編、岩波文庫、1984年、p.11-12,14)

 石橋がここで捉えている「自由」は、アイザイア・バーリンの自由の二類型でいえば「消極的自由」に相当するものだろう。自由とは人間社会に必要な基盤ではあるが、それだけで何か積極的な「意志決定」や「行為」を持つものではないという意味合いで捉えられている。

 これだけならいいのだが、ちょうどこれを読んでいる時に耳元のiPodから流れてきたのが、よりにもよってモダーン今夜の「名犬ジョディー」だったからたまらない。犬の飼い主が愛犬の鎖を切って解き放ち(ていうか実質上は捨て犬?)、名前もなくただここにいることは幸せなんだと笑っても、当の犬はむしろ自分自身の存在を見失ってしまうという歌なのだが、読んでいる本とあまりにも内容がリンクしすぎてびっくりしてしまった。

名前なくして ただここにいること 幸せだと君は笑うの
僕はいったい どこの誰なの
教えて 僕は誰なの

走れジョディー 行き先なんか見えなくたって
走れジョディー 僕の名前呼ばれるまで

モダーン今夜「名犬ジョディー」)

 無限の自由を手に入れたジョディー(と呼ばれている名前をなくした犬)は、はたして幸せになったと言えるのだろうか。デリダが命名を「原=暴力」と呼んだことを考え合わせると、さらに味わい深くなってくる。