メッセージ性

今はなき「pop ind’s」誌において、 ポップス新世代ネオアコースティックの新人として、 遊佐未森高野寛らが紹介されてから、 10年もの歳月が経過してしまった。
(略)
声高に思想を訴えるのではなく、表現こそ穏やかだが、 実は過激なメッセージが秘められているような音楽。 あの雑誌を読むことでそんな音楽に出会えたような気がする。
高野寛初期音楽にもそれを感じていたように思う。 大ヒットした「虹の都へ」も恋愛的状況を歌っているように見えて、 もっと大きな存在、状況を歌っていたと思うし、 初期三部作にはその影があちこちに見える。
ただし、音楽を楽しむ分には そのメッセージ性は全く関係がない。 それが分かったからといって、 その音楽家の思想が分かるわけもなく、 むしろ音楽を楽しむということからは もっとも遠く離れてしまう行為なのかもしれない。
高野寛のこの2枚組ライブCDを聴くとますますその思いが強くなる。 大切なのは思想ではなく音楽を楽しむということなのだということを。

「RiDE On tIDo/高野寛」 1983アルコ堂メディア日記 2000年3月23日

 何らかの強いメッセージ性を含ませつつ、でもあえてそれを表面には出していないので、さらっと心地よい音楽として聴くことも出来る。スマートでもあり粋でもあります(その流儀が全てに通ずべきとまでは言いませんが)。THE BOOMの「島唄」では、歌詞だけでなくメロディーラインや編曲にもそのような「隠れたメッセージ性」が含まれていたという話を聞いたことがあります。
 音楽に限らずこうした「作品」には、観客が「発見する」部分を残しておくことが大切でもあり、また観客へのサービスでもあるのかもしれません。

確かに私自身「淡泊」気味なものの方が、「かっこいい」と好むきらいがある。
東京と関西という関係の話から外れて、一般論にはなってしまうがこんな事を考える。
私は作者(演者)の狙いみたいなものがわかり易く伝わり過ぎるものが苦手なんだと思う。
それはある種、作者(演者)の行為を観る側が確実に掴めるという事で「安心」出来る状況にはなるんだと思う。
でもその「安心」が苦手。
少し醒めていたいとか、自分で考えさせて欲しい、判断させて欲しいって感じになる。
勿論、「狙いがわかり易そうには見えないようにする狙い」っていう言い方も出来るから、それも「狙い」には変わらないにとしても、こちらが判断出来る感はある。

丹野賢一 DIARY 2001年6月11日

 そういえば宇多丸さんも「ザ・シネマハスラー」の映画『GOEMON』評で、作者が最も訴えたいメッセージは直接台詞に出したりするな、なんてことを言ってましたっけ。