リングを降りた者へのまなざし

 今日開催された『まどか☆マギカ』オンリーイベントは、企画当初より参加者が大幅に増えたせいもあって運営面などで混乱していた部分もあったらしいが、ともあれ一作品オンリーとしてはかなりの盛況だったようだ。本作は非常に大きな話題を呼んだ作品となり、番組自体は終了したものの今後もスピンオフ企画などがあるようなので、当分は人気作品として盤石の地位を保ちつつシーンを牽引してくれそうだ。
 ちなみに私がこの作品をフォローし始めたのは放送開始からだいぶ遅れた3月初旬のことであり、しかも「『仮面ライダー龍騎』に似ているよ」という噂から興味を持ち始めたという、まあ割と邪道な(?)入り方ではあったのだが、約二ヶ月くらいとは言えこの作品の盛り上がりにリアルタイムで立ち会えたのは実に幸福なことだった。この作品を世に送り出してくれた皆様と、私に邪道な興味(?)を植えつけてくれたネット上の皆様に最大の感謝を贈ります。
 ……これで二ヶ月弱続いた個人的「まどマギ強化月間」も終了ということで、そろそろHootSuiteの検索ストリーム(「まどか」「まどマギ」「#madoka_magica」の検索ワードで一個ストリームを立てていたのだ)も削除して元のペースに戻す必要があるんだけど、戻ってくれるかなぁ。

 


 さて本題。
 地震などの影響でしばらく延期されていた『まどか☆マギカ』の最終回がいよいよ放送されるという少し前に、出崎統監督の訃報が報じられた。

「あしたのジョー」「ベルばら」アニメ監督の出崎統さんが死去 67歳、肺がん (2011/4/18)

あしたのジョー」「エースをねらえ!」などを手掛けたアニメーション監督、出崎統(でざき・おさむ)さんが17日午前0時35分、肺がんのため死去した。67歳。(略)
 昭和18年、東京都出身。高校在学中に貸本漫画家としてデビュー。38年、旧虫プロに入社。テレビアニメ創生期から活躍し、45年、「あしたのジョー」で初監督。止め絵などを多用した独特の演出技法が高い評価を受け、その後も「エースをねらえ!」「ガンバの冒険」「宝島」「ベルサイユのばら」などを次々と手掛けた。

http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/110418/ent11041811020008-n1.htm

 黎明期のテレビアニメを語る時にこの人を抜きにしては語れないという、文字通り大御所中の大御所の一人だが、ごく最近まで現役の製作者として最前線に立ち続け、新作テレビアニメや「萌え」アニメの劇場版製作にも関わっていた。

……『CLANNAD』をやっているときに、この子(ヒロイン)なんで死ぬの? って訊いたんです。そうしたら「ゲーム上死なないとね、泣けないんですよ」って答えられた。一見シリアスなんだけどさ、オレから見るとちゃんとした根っこがないんだよね。現象としてそういうのをやれば客は泣く、それがわかっているだけで。だから映画にするときは、どうして死ぬのか、少なくとも心の流れだけはきちんと作っていこう、と。で、その死に対して、ちゃんとそれを感じる人間を登場させようとした。それは当たり前。当たり前のドラマを作っただけなんです。「ここで死なないとゲームとしてマズイんですよね」。それは、視聴率だけよければいいや、というのと似ている。「とりあえず殺せば泣くんだよね」というのは、人間を甘く見ている。甘く見ているし、でもそれで通用する部分があるっていう世の中はなんかヘンだよね。とってもヘンだよね。

「人間を甘く見ている」巨匠・出崎統が"萌え"を斬る!(後編) 2009/1/14

 作品世界とその中に生きるキャラクターに対して、非常に誠実な人だったのだろう。決して“作りもの”の世界にはしたくない、“生きた”世界にしたい、という製作者の思いや矜持が伝わってくる。

 出崎監督の代表作として必ず挙げられる作品の一つに、『あしたのジョー』のアニメ版がある。『ジョー』のテレビアニメは約十年のブランクを挟んで2つのシリーズが製作されており、原作前半部に当たる力石とのエピソードを主に取り上げた最初のアニメ版『あしたのジョー』(1970~71年放送)、および力石死後のジョーの姿を追った『あしたのジョー2』(1980~81年放送)の二作品がある。特に、特徴的な出崎演出として時折りパロディのネタにされることもある「透過光/逆光・止め絵・三回パン・画面分割・海猫」等は、後作の『2』では顕著に登場し、いかにも「出崎印」な作品になっている。
 単に演出面だけだけでなく、原作のストーリーをテレビアニメとして膨らませる中で、原作とはまた異なった美学のようなものも人物描写や物語展開などに表出されており、原作とはまた違った魅力が『2』ではより顕著に現れている(ただしこれは出崎監督個人の意向のみとは限らないが)。
 とりわけ私の印象に残っているのは、「リングを降りる(降りた)者」に対するまなざしだ。
 例えば第13話「丹下ジムは…不滅です」では、鑑別所以来の友としてジョーと共にボクサーとして活躍していた西寛一(マンモス西)が、拳に再起不能なダメージを受けて引退する時の様子が描かれている。全体の大きな流れの中で見れば、後半の大きな節目であるジョー対カーロスの戦いが終了した後の小さなサイドエピソードではあるのだが、ここに現れている西のボクシングへの思いは、本編の大試合に負けず劣らず非常に印象的だ。
 丹下ジムで行われた引退記念パーティの席上、西はボクサー生活の最後の区切りとして、ジョーとのスパーリングを望む。

西「最後のスパーリングや。それで区切りや。もう一度、もう一度ジョーとパンチが交わせれば、わいは吹っ切れる。頼むわジョー、この通りや」
ジョー「わかったよ、西。ただしグローブは16オンス、1ラウンドだ。それでいいか」
西「ええわ、ええわジョー。それで十分や」

 リングでジョーの強烈なパンチにダウンした西は、心から嬉しそうにジョーの強さを賞賛し、自分自身がかつて歩んできた道への誇りをそこにオーバーラップさせる。やがてシーンのBGMにOP曲「傷だらけの栄光」インストルメンタルが被るところも心憎い。この曲は作中でも、ジョーのボクサーとしての矜持がリング上その他で炸裂する「ここぞ」という時のBGMとしてしばしば使用されているのだ。

西「相変わらずキレのええ重いパンチを打ちよる。あのカーロスとの死闘から一週間も経っとらんちゅうのに、さすがジョーや。おっちゃん、ほんまに安心してええで。このジョーのある限り丹下ジムは不滅や。いや、ボクシングがわいの青春やったいう誇りは、永遠に不滅や!」
 ……
ジョー「へへ、この程度でダウンしたんじゃ、おめえの誇りってやつに傷をつけちまうことになる」
西「ああ、その通りや」
ジョー「ようし、行くぞ西!」
西「おー!」

 

 第26話「チャンピオン…そして、敗者の栄光」では、元全日本ライト級チャンピオンの村上輝明という人物が登場する。この回の時点では既に、ジョーの最後の敵手となる世界バンタム級チャンピオンのホセ・メンドーサの存在が数回かけてクローズアップされており、その流れの中で村上は日本人で唯一ホセとリング上で試合した経験のある人物として登場している。
 ジョーはフリーランスの記者・須賀(アニメ版『2』のオリジナルキャラクター)に連れられて、今は焼鳥屋の屋台を開いている村上に会いに来る。まだアマチュア時代の若きホセにリング上で叩きのめされて以降、村上は一旦チャンピオンにまで上りつめたものの、心のどこかでボクシングに恐れを抱き続け、遂には引退してしまう。

それからってもの、本当にボクシングってもんが恐くなりやした。
一応はそのあと全日本チャンピオンになって二度ばかり防衛もしてみましたがね、どうしてもその一戦が忘れられない。何度も夢見ちゃあうなされて、それでとうとうやる気をなくして引退。
引退して、ほんともう人生が終わっちまったって感じでしてね。もし、もしホセが世界チャンピオンにならなかったら、あっしはもうそれっきりだったね。
引退して4~5年経って、ホセが世界チャンピオンになったって聞いた時、不思議なもんだね、とても嬉しかった。なんでかねえ、嬉しくって一晩中飲んじまった。……
それからってもんは少しやる気を出してさ、こうして焼鳥屋なんか始めちまったんだ。

 このシーンの酒と焼鳥が実に旨そうなんだわ。もちろん絵だけのせいじゃないんだけど、こっちまでいい酒につきあった気分にさせてくれる。村上が飼い犬に「ホセ」という名前を付けているのも、この後で暴漢に立ち向かいながら結局叩きのめされてしまう村上が、上ずった声で「わ、私は全日本ライト級チャンピオンの……」と言い続けているのも、何とも切なくて実によろしい。

ホセ・メンドーサが世界チャンピオンになって嬉しかった、ってあたし言ったよね。あれは負け惜しみじゃなくてさ、本当なんだ、本当なんだよ。
自分に勝った男が世界チャンピオンになる。理屈抜きにね、嬉しいもんなんですよ。まるで自分の栄光のようにね。

 この時点で既にジョーは、リング上で力石を死に至らしめ、カーロスを廃人にし、ウルフ金串を再起不能に追い込む等、強いボクサーとしての数々の“業”を背負った人物として描かれている。先の西引退のエピソード同様、この話も金龍飛戦が終わって次の大きな物語が転がり始めるまでの、幕間のサイドエピソードとして配されているのだが、西や村上のエピソードは、そうしたジョーの“業”に対して、直接的ではないが一種の“救済”の在り処を示すエピソードとして描かれている。それだけでなく、原作からアレンジ・付加されたウルフ金串のエピソード(第27話、第44話)では、ジョーにとっての“救い”の契機がより直接的に強調されている。
 同時に、ジョーにとっての意味だけでなく、ジョーの拳によって、あるいはそれ以外の要因(西の場合)によってリングを降りてしまった者自身に対する、精神的な“鎮魂”の意味合いもある。『あしたのジョー』のストーリーというと、真っ白に燃え尽きるまでリングに上がり続けたジョーの姿に象徴されるように、自分の命を引き換えにしても決して戦いを止めない男たちの姿に焦点が当てられている印象が強いが、アニメ版『2』ではその周囲にも視野が広げられて、戦いを途中で断念せざるを得なくなった者たち、“リング”を降りた者たちに対しても、暖かい(「甘い」ではない)視線が注がれている。
 それどころか、むしろ『2』ではそちらのほうが重要なのではないか、と個人的には思える時もある。確かにジョーは本作の紛れもない主人公ではあるのだが、一方で物語が進むにつれて、視聴者の視線はどんどんジョー自身から離れて、むしろジョーを見つめるリング外の人間の視点に近くなっていくように感じられるのだ。
 ホセ戦を目の前に控えて、ジョーと共に東光特等少年院に収容されていた面々が集まるシーン(『2』第44話)で、収容者の一人であった青山は、「他の人がどんどん変わっていくのにジョーだけはあの頃と全然変わっちゃいない、ジョーだけが遠い青春を一人忘れずに引きずっているような気がする」と語っていた。ジョーはある意味で“憧れ”ではあっても決して“それ自身”になることは出来ない彼岸的な存在だったのであり、むしろボクシングとリング外の私生活とのバランスを重視していたホセのほうが、作中のプロットとしてはジョーが遠い目標として追い続けたチャンピオンではあっても、実際にはジョーよりよほど私たちに近い“此岸”的な存在だったのではないだろうか。冒頭のマクラに置いた『まどか☆マギカ』の話に引っかけてみるなら、ジョーは次第に「生きた人間」から「“青春”という概念」そのものに近い存在へと変わっていったように見える。有名な「真っ白に燃え尽きた」シーンは、ジョーが此岸的な世界の人物の域を完全に超越して彼岸的・神話的人物の領域に到達した瞬間であり、あの時のジョーが(生物学的に)生きているのか死んだのかという議論は、実のところどうでもいい話だと私は思う。例え生きていたとしても、「“青春”という概念」としてのジョーはあの時に神話として“永遠の相の下に”固定されたのだ。
 意識して「リングを降りた者」の視点が強調されていた『2』の製作意図には、視聴者自身は「ジョー自身」というよりも「ジョーを見守る者」かせいぜい「ジョーを目指す者」にしかなり得ないという観点が、もしかしたら含まれていたのかもしれない。