見なし

人格障害をめぐる冒険』大泉実成、読了。あたり、だった。
(略)
ビミョーなんだけど、PDSDやADHDは、その言葉が普及することにより、
救われた人がたくさんいるだろう。これは間違いない。
たぶん同じ出自なんだけどDSM(「こころの障害の診断と統計のマニュアル」)は、
かなりヤバそうだ。

ただし、それでわかった気になっていないだろうか。
作者はそれを「片づけ」と表現している。
「現実は「片づけ」を求める」
「僕はこの「片づけ」という言葉を、事件によって人の心に起こった不安や、
その事件の最も重要な部分をうやむやにしたまま、
社会的な幕引きをしてしまうこと、といった意味で使ってきた」
「「裁判所」という場所は、ありとあらゆる世間の難問が持ち込まれ、それをいかに「片づけ」ていくかという、
いわば片づけのメッカのような場所である」

長い昼 ─ うたかたの日々 2006年4月26日

 PTSD等のように、ある状態が“見なし”によって一般的な形で言語化されることは、その状態を社会的に取り扱うことを可能とするので、個々人の限られた能力を越えた集団的な知識や経験のリソースを利用可能にするというメリットがありますが、一般的な観点に引き出された時点で、その状態についての語りは一般的な言葉によるものが主流となり、それが「正解」であるとすら“見なされる”ことがあります。
 この、“社会的な”取り扱いというのがポイントなんでしょうね。結局のところ、他人は個々人の事情に全人生レベルでコミットすることなんて出来ませんから、社会全体の秩序や安定等を考える立場では、どこかで「この一件は片付いた」とか「この一件はこのように解釈することで確定した」と“見なす”ような線引きが求められます。もちろん、これは一般的な観点がそう“見なしている”だけであって、個々人の観点がそれとマッチしないことは別に不思議でもなんでもありませんし、この“見なし”だって後に変更される可能性はあるのですが、法的・学術的権威によって語られた“見なし”は、しばしば人々に対して(「諸君も同じように見なす“べきだ”」などというように)規範的にメッセージを作用させることがあります。