某大学氷結教室

ハーバード白熱教室」というのが話題になっていて、指導教官の教授の邦訳本が小難しい道徳学だか倫理学だかの本にしては珍しくベストセラーになっているらしい。
 で、こういう講義が存在する知的土壌をうらやましがったり、日本でもこんな感じの白熱教室が出来ないだろうかと論じたりする意見をちらほらと見かけたりもする。俺もそういう意見に賛同したい気分が無いわけではないんだけど、一方で自分が大学生だった頃のことを冷静に振り返ると、別の結論も出てくる。大学生の俺が果たしてこのような講義の場を俺が歓迎したかどうかと言うと、決してそんなことはなくて、むしろ「こんな面倒なのやだ」と思ったんじゃないか。というか実際にそう思っていたし。

 こないだ『侍戦隊シンケンジャー』のDVD版映像特典についている出演者対談を見ていたら、大学生でもある松坂桃李(殿)と鈴木勝吾(千明)が「人見知り」の話をしていた。松坂が自分は基本的に人見知りだと話しているのに対して、鈴木は自分もやはり人見知りだと言って、その一例として学校では自分から進んで発言することなど無いし、仮にそういう番が回ってきたらかなり恥ずかしい気分になる、などといった話をしていた。さらに鈴木は、そうした場とは対照的にシンケンジャーの撮影現場では決して同じように尻込みすることは無く、わからないことがあればとにかく早めに解決したいので自分から進んで周囲の人たちにどんどん問いを投げかけていくとの事で、松坂は鈴木と違って自分が撮影現場でもなかなか他人に質問を投げかけにくい性格であると語りつつも、基本的に大学が積極的に発言しにくい場であるのに対して撮影という仕事の場は比較的積極的に自分の意思表明をしやすい場であるという点については、同感しているようだった。
 もちろん個別のケースをむやみに一般化することには注意すべきだと思うけど、松坂と鈴木の会話が俺自身にとっても「ああ、あるある」と頷けるものだっただけに、「白熱教室すごい、翻って日本の大学どうすべきか」という論調との落差の大きさがちょっと気になったのだ。

 ……なんてことを書いているうちに、ある重要な可能性を見落としていることに気付いた。
 もしかしたら、俺がのほほんと学生やっている間にも、どこか俺の知らないところで「日本の大学どげんかせんといかん」みたいなことはさんざん語られていて、またそういうことに熱心な学生も俺が思っていた以上に世間にはたくさんいて、ただ俺がそれに気付かなかっただけだったのかもしれない。何しろ今は家にいながらにして半径10クリックくらいの間にたいていの議論の存在は(ネット上に存在する限り)目に入れることが出来る時代だけど、それ以前はよほど目を凝らしていない限り、自分ののほほん振りがどう語られていたかなんて視野にすら入ってこない。
 そう考えると、認識の視野を以前よりもずっと簡単に拡大できるという点で、やはりインターネットと言うのはすごい発明だったんだろう。もちろん視野が広くなったからと言って、それぞれの分野について十分に知見を掘り下げられるというわけではなく、むしろ「広く浅く」とっかかりを作るという程度ではあるんだろうけど、でもネット普及以前はそれすらも出来ない「狭く浅く」の世界で終わっていたのかもしれない。とりあえず未知の分野へのきっかけが手近なところに(それこそお茶の間のデスクトップに)ある、というだけでも実はすごいことなのだ。