トートロジー

「気持ち悪い人・困った人disり問題」

よくたとえに出すのだが、
「とんちに答えられない一休さん」とか「弱い座頭市」っていうのは、私個人はギャグにならないと思ってるんですよ。
そもそも(説話上の)一休さんや映画の「座頭市」、それと水戸黄門なんかもちょっと入るんだけども、もともとの物語構造が、子供、老人、身体障害者という社会的弱者が強者をやりこめるところに意味がある。
言ってみればオリジナルが「逆に」から始まっているわけで、それを単純に元に戻したら、ただの現実だよ。
「弱い子供」、「弱い身体障害者」、「弱い老人」だもの。
「逆に」っていうのはものすごく高度な遊びであって、将棋や囲碁やチェスの一手を打つくらい熟考しないといけないんですよ。でも、今の若い人って生まれたときから「逆に」文脈の中で育ってきているから、いったんこじらせるととんでもないことになる。

 この傾向って、複数の流れが合流しているという面がありそうな気がする。「タテマエよりホンネが大事」みたいな価値付けの方向性とか、「この不況下ではとにかく“戦わなければ生き残れない!”」と開き直る感覚とか、「社会的に立場が弱い→補正する」ではなく「社会的に立場が弱い→弱い奴は弱い」というトートロジーで満足しちゃう発想とか。