既製品

妹の店でもらった「難あり商品」の小銭入れ、猫の顔のデザイン。
それがこないだ壊れてしまった。糊で合わせてあったフタの部分が二つに分離した。
で、木工用ボンドみたいなのを借りて、分離したフタを貼り合わせた。

乾かないままそのままポケットに入れてしまうとダメだと思い、重ねた本の下に敷いたりして、少しだけ時間をかけて用心深く補修した。そしたらうまいこと直った。

それだけの事なんだけど、自分の力で何かを直したのってすんげぇ久しぶりで、軽い感動を覚えてしまった次第。思えば最近はハイテクな道具ばかり使っていて、自分で直せる物なんてなかなかない。そうでなくても例えばギターが故障しても、直せるだけの技術や知識がない。お金で直せるものなら修理に出す。

ちょっとした物なら買い換える。ていうか、近頃はほとんどの商品が古くなったら買い換えることを前提として作られ、売られているんじゃないでしょうか。自分もわりとそれを受け入れている。(略)
 ……

直ることの喜び ─ つきつき日記@word 1998年10月5日

 複雑なメカニズムによって、あるいは大規模な投資による製造過程を前提として高い利便性を獲得した道具は、その利便性の代償として、壊れたり故障した時に自分一人ではどうすることも出来ないというケースを生みだしたりします。ふだんはまるで意識していない専門的な知識・技術の集約によって生み出された様々なプロダクトは、ひとたび調子が悪くなって私の手に負えなくなると、自分一人では到底手に負えない無数の知識・技術・資本の集約によってそのプロダクトがようやく生まれえたのだということを明らかにします。
 気付かぬうちに、この種のブラックボックスが私たちの生活をいかに取り巻いていることか。単に「分業によって生活が向上している」という程度の認識ならまだいいのですが、この認識を推し進めると、自分たちの生活の維持向上のために他人を道具として使役することを当たり前と感じるような傾向を生みだすのではないか、という思いもあるのですが、その話はまあ別の機会にでも。

 ともあれ、たまには「自分の手で何とかしてみる」という経験を通じて、自分の生活の利便性のために他人が何をしてくれているのかを漠然と悟ることも必要なのかもしれません。