モジュール戦隊

 以下はほぼ完全に私のいいかげんな見立てと憶測に基づいた予想(というより妄想?)なので、間違っても“事実”として流布したりしないように。しないか。

 

天装戦隊ゴセイジャー』は東映にとって、帯番組製作の「モジュール化」をどこまで推し進められるかを検証する実験企画の側面を持っているのではないか、という予想が、放送開始当初から私の頭を離れてくれない。

 最初にその考えが頭に浮かんだのは、第一話のオープニングとエンディング映像を見て、「どうも演出がこなれていないなあ」と思った時のことだ。
 OPでゴセイヘッダーのイメージがビービ兵を倒していくカットが四度も繰り返し登場する冗長さや、OP・ED両方で使われている演出意図がよくわからないコマ送りか動画処理落ちのような映像など、この手の番組ではベテラン中のベテランが揃っている東映特撮にしてはいまいち洗練されていないという印象を受けた。コマ送りについては何かテーマ上の含みがあるのかもしれないという可能性も考えたけど、やっぱりよくわからない。
 その後、他の人の意見を見ているうちに、あれはスーパー戦隊恒例の追加戦士が登場した時の尺を前もってキープしているからではないか、という見方を見かけて、それなりに納得がいくと同時に別の謎も浮かんできた。今までの戦隊であれば、追加戦士登場後に必要な尺を前もって冗長なカットで埋めておく、なんてことは無かったと思う。もちろん最初からメンバー追加後のことをある程度計算した上で初期映像の設計をしてはいるんだろうけど、その場合には映像全体の流れを再構成するなどして、見ている側にそう感じさせない自然な演出を心がけていたはずだ。
 では、現実のゴセイジャーではなぜああいうスタイルが取られているのか。後から映像を作りかえる際に、確かにゴセイジャーのほうが作業がやり易いのは間違いないだろう。コマ送りの部分を詰めて普通の速度に戻し、ビービ兵攻撃の四回リピート(厳密には同じ映像のリピートではないのだが)の部分を削除するだけで、追加戦士や追加ロボの尺は確かに簡単に取れそうだ。リピートの回数を変えることによる微調整も出来る。全体の映像に手を加える度合は最小限で済むだろう。ついでに言えば、ED映像にこの形式が取られたことには明らかな利点が一つある。これまでは追加戦士登場後もEDフィルムについては従前の映像が最後まで使用されてきたことが多かったが(ただしゴーオンジャーのような例外もある)、初めから尺をキープしておけば追加戦士の映像も比較的簡単に挿入が可能だろう。
 それにしても、毎年シリーズを変えながら何十年もずっと製作を続けてきたベテランスタッフの厚い層を抱えている東映特撮の戦隊スタッフが、何でこんなところで手抜きっぽい映像を作ってしまったのやら……

 そう思ったところで、「もし、この前提が違ったとしたら……?」ということに思い至った。
 確かに過去の戦隊作品は、撮影所のベテランスタッフによって製作されてきた。今もそうだろう。
 でも……今後もそうだとは限らないのだとしたら?

 戦隊シリーズの製作会社は東映だが、別に東映が自社の内部だけで全てをまかなっているわけではなく、外注会社との連携の下に製作を行っている。こういった製作の部分的外注では、戦隊シリーズでも仮面ライダーでも、シリーズを通してだいたい同じ会社が請け負っていることが多い。蓄積された製作ノウハウの活用や東映の中核スタッフとの意思疎通などの関係でなかなか他には出せないのだろう。
 でも、これまではそうだったからといって、今後もずっとそうであるとは限らない。もしあなたが文芸スタッフではなく経営陣だったとしたら、製作コストの圧縮のために、多少のデメリットは承知の上で今まで使っていなかった外注先に安価で仕事を請け負わせるという選択肢を、考えに入れることはないだろうか? それも国内だけでなく、将来的にはもっと人件費の安い国などに。

 もちろんこれはあくまでも私の想像に過ぎない話なのだが、コスト削減や外注先の機動的変更などといった経営上のメリットやリスクヘッジを模索するための実験企画として今までのゴセイジャーを見返してみると、意図がよくわからなかった演出などに、実はそれなりの意図があったのではないかという可能性が出てくる。ただしこれはゴセイジャーが既にそういう施策を実践しているということではなく、現段階では将来の方向性に向けた布石ということになるのだろうが。
 連続ドラマを製作する上で、外注先等が急遽変更されることによるデメリットが何かというと、真っ先に思いつくのは演出意図が十分伝わらないこと等による納品素材の不完全さ等によって、番組全体に有機的に統一された作品イメージを持たせることが出来なくなることではないかと思う。外注先変更とはちょっと違うが、『仮面ライダー響鬼』の路線変更騒動を思い起こしていただければ、何となくイメージが沸くのではないだろうか。
 この予想されるリスクに対する対策としては、事前に十分な意思疎通を図るというのも一つの手だが、別のアプローチとして、予め不完全さを見越した上でそれを吸収できる弾力的な全体構想にしておくという方法もある。

 例えば、ゴセイジャーは天使の戦隊という割には意匠がいまいち「天使」的に統一されていない。千葉雄大君の顔が天使っぽいかどうかはまあ人によって評価が分かれて構わないとしても、使っている道具はモアイ像の顔を象ったようなテンソウダー(マスターヘッドも似たような顔だ)に野生動物の意匠を持ったゴセイヘッダーであり、そのヘッダーはどこか遠く離れた南洋の島っぽいところから岩を突き崩して現れる。天使というより、むしろ古代文明の遺跡とか太古の自然をモチーフにしたと考えたほうがしっくりくる。巨大ロボの一形態であるシーイックゴセイグレートが海賊モチーフなのも、そうした太古の遺跡の探検者みたいなイメージで考えたほうが統一感が感じられる。その上、敵はなぜか天使とも古代文明とも無関係の、SF映画のタイトルをもじった名前を持つ宇宙生命体であり、さらにこの敵集団は15話でいったん壊滅して、次からは全く別のモチーフを持った新しい敵集団がゴセイジャーの前に立ちはだかるらしい。
 ここまで意匠がバラバラで、物語の世界観に統一性が感じられない特撮作品も最近ではかなり珍しいと思うのだが、別の視点で考えれば、何か製作途中で部分的な不都合やコスト削減などの理由による外注業者の変更を余儀なくされたとしても、もともと意匠が切り分け可能になっていれば、作品全体を作り変えることなく、不都合な部分や変更を要する部分だけを変えるだけで物語としての体裁は保てるということになる。
 言ってみれば、作中の意匠がそれぞれ単独で切り分け可能な「モジュール」として独立していて、後からメンテナンスする時の切り分けと交換が容易となっている構造なのだ。主人公のキャラは天使の意匠モジュール、変身道具は古代文明の意匠モジュール、ヘッダーは動物の意匠モジュールといった具合に。敵組織は最初のうちはSF宇宙映画の意匠モジュールとして味方側とは別個に構築され、後で別の意匠モジュールに差替えても問題が無いようになっている(ウォースター退陣と新敵登場)。
 同じような視点でOPとEDの映像を考察するなら、全体の映像を変えなくても最小限の編集だけで追加戦士や追加ロボの尺が取れるように設計されているということは、そこだけ元の映像を製作した外注先とは別の(より安価な、またはより納期の早い)ところに追加映像の製作を委託することも容易であるということだ。追加映像に要求される時間さえ合っていれば、元のOP・ED映像にあるコマ送りカットや四回リピート攻撃のカットをモジュールとして切り離し、代わりに追加映像をモジュールとして差替え挿入すれば済む。
 設定や個別の映像だけではなく、物語構造にもモジュール化を意図したのではないかと思われるとところが見受けられる。
 ゴセイジャーの各エピソードは基本的に一話完結で、それぞれのエピソードのドラマは各話の中で小さく自己完結しているのだが(これは従来の戦隊も同じ)、新たなゴセイヘッダーの登場とパワーアップの描写が盛り込まれた時に、ドラマ部分の展開とパワーアップ描写の間に有機的なつながりが全く見出せないことがしばしばある。敵を倒すために唯一有効と見込まれた天装術「コンプレッサンダー」を使えるようにエリが特訓する話では、ドラマ部分がほぼ全て特訓の話に費やされているにもかかわらず、結果的にその技は相手に効かず、コンプレッサンダーとは何の関連も無しに突然現れたダチョウヘッダー(正式名称忘れた)によって初めて相手が倒されていた。これはもっとも顕著な例ではあるが、他のエピソードでもドラマ展開の主モチーフとその回で登場する新ヘッダーとの間にはだいたい何の関連性も無い。この点も、ドラマ部分と戦闘シーン部分を互いに独立したモジュールとして分離・組み換え可能な構造にしてあるのだと捉えれば、意図としてはわからなくもない。これは直接のコスト削減施策というより、付き合いの浅い外注会社に製作を委託した素材に欠品や不備が発見された場合のリカバリが効きやすいという意義のほうが強いだろう。例えば将来、人件費の安い国にCG映像の一部の製作を委託したとして、そのCG映像にそうした瑕疵が見つかり、しかも国内の“活動屋仲間”を相手にする場合と違って根性論に訴えて相手を説得することなど出来ないといった場合に、当該CG部分がドラマ部分とモチーフ上の共通点を特に持たされておらず、別のCG素材と組み合わせても一応ストーリーの筋が通るのであれば、既に完成している素材モジュールを応急的に別様に組み替えることで、当面の急場を凌ぐことは出来るだろう。
 さらに、ゴセイジャー5人が日頃暮らしている天知家の人々との交流が、居候させてもらっている割にはかなり薄い描写しかないという点もある。特に博士は登場しないことのほうが多い上に、登場しても物語に積極的に絡むことはめったにない(もしかして一度も無い?)という状態だ。博士がアマチュア天文家という設定になっているので、宇宙生命体を敵とするゴセイジャーを側面援護する役目でも振られるのかと思っていたのだが(戦隊ものではメンバーを側面援護する大人がレギュラーに一人入るのが定番なので)、そんなことなどまったく無いうちに肝心のウォースターのほうが壊滅してしまった。いくら一般家庭とはいえ、作中でサージェスやスクラッチや志葉家に相当する人たちがそんな稀薄な存在意義でいいのかと思ってしまうが、これも戦隊メンバーとそのバックボーンとなる組織・人間集団をモジュールとしていつでも切り分け可能な状態に置いているのだと考えることができる。

 まとめると、ゴセイジャーの新しさは「草食系レッド」とかそういうところではなく、設定・意匠・物語構造その他の文芸面全般に渡って大胆なモジュール化が志向されているという点にあるのではないか、という予想も可能だと思うのだ。
 このようなモジュール化の施策は、現在と同等の継続的な製作体制が今後もずっと維持できるのであれば、特に必要なものではないだろう。だが、テレビ番組の標準的なビジネスモデルである広告モデルがマスメディア広告全般の市場縮小に伴って今後次第に立ち行かなくなり、また少子化云々でメインスポンサーの玩具ビジネスも前途洋洋と言うわけにはいかないとなれば、映像ビジネスそのものは継続しつつ経営を維持するキャッシュを捻り出すためにコスト要因を限界まで絞り込む必要があり、そのためには製作現場そのもののあり方を現状から大胆に変革する必要性がある、という考え方も成立するのではないだろうか。

 ……えーと。
 何と言うか、そうとでも考えないと説明がつかないような気がするんですよ、今のゴセイジャーの状態って。
 だってこれ、スタッフは以前の戦隊からほとんど様変わりしてはいないんですよね? 私の大好きな、あのシンケンやゴーオンやゲキレンやボウケンとだいたい同じスタッフが継続して作ってるんですよね?
 コミカルでのんびりした作風自体は別に嫌いじゃないんですよ。キャストも魅力的だと思うし。個別に見ればかっこいい絵や場面もあるし。ただ、あまりにも作品全体に一貫した世界観が無さ過ぎるのです。一部では脚本の横手氏が槍玉に挙げられたりもしているようですが、脚本(お話作り)の迷走だけでは説明がつかないようなところが結構あるように思います。
 で、そんなちぐはぐさにあえて整合的な説明をつけようとしたら、「最初から切り貼りのパッチワークがしやすい構成になっている」というくらいしか思い浮かばないのですが、でもこういうメタな解釈ってディケイドだけでもうお腹いっぱいです。「ゴセイジャーに物語はありません」なんてことはあんまり言いたくないのよ。w 何とかしてくれ護星天使。