口承

 …… つまり、語りには台本はあってもないようなものだ、と言いたい。私は語りたい作品があるときは、台本なしで何年でも語る。語り続けているうちに語りのことばの主要な部分がきまってくる。しかし、細部は常に変わる。昔の語り手はそうしていたと思うのだ。語りは一人で演ずるものではなく、常に聞き手がいて成立するものである。聞き手に合わせて、語りながら細部を変える。
 語り手が自分の孫に聞かせるときと、身分の高い人に語って聞かせるときは、同じ話でも、語り口調と語りの筋の運びが違ってくるのが当然である。年齢や教養に合わせるからである。筋の合間に入れる物事の引用や<だじゃれ>なども違う。
 語りは文字から出てくるものではない。
 語りは、語り手の口から出るものである。語り手一人一人の文学性や、物語の構成のユニークさが大事なのだ。

MIKIの優雅な日々 2002年5月31日

 口承によって語り継がれた民話は、大まかな骨格を時系列的にある程度共有しつつも、細部については語り手の折々の言葉に任されていたため、様々な“異本”が存在します。時とともに骨格そのものが変容していくこともあります。でも、それが当たり前とされるところではむしろ、外的な文字テキストによって同定された“異本”無き民話のほうが奇妙な存在に見えるかもしれません。唯一の「作者」が一人だけいるのではなく、むしろ「作者」の存在が語りの数だけ無数に存在する世界。