今日は明日の昨日

古本屋をしていると、昔の東京の写真集をしばしば目にする機会がある。目の前に広がるのは、古き良き東京のモノクロ世界。しかし、頁端の小さな文字の撮影年に目を凝らすと昭和41年、43年、45年、……。なんじゃ、私はこのモノクロの片隅に棲息しているじゃないか。町のあちこちにぬかるみがあり、舗道にはでこぼこがあって、今見るとクラシック型のカッコイイ自動車が普通に走っていて、バスの床はオイルを染み込ませた木で出来ていた。

再び光源寺での会話のひとコマ。
「昔は電話番号の横に(呼)を付けた、呼び出しの電話もあったねぇ。」
「あ、知っています。祖母が大家さんしていたアパートは呼び出しで、○○さーん、電話でーす、って大きな声出してましたし、学校の連絡網なんかでもそのマーク見ました。」

「このトイレ、扉の木のつまみが懐かしいわね。知ってる?」
「あ、知っています。親戚の家がそうでした。入ると裸電球をクルクルッと回して灯りをつけて……。」
(略)
私が生まれて35年と少し、世の中はずいぶんと変ったもんだなぁ。
ファーストフード店で近くに座ったおじさんが、鞄からおもむろにアイロンのように大きな携帯電話を出したのはついこの間のような気がするけれど。

谷根千ねっと - 古書ほうろうの日々録 2002年6月24日

 当時は当たり前だった何気ない日常も、今から見れば二度と戻らないセピア色の日々。
 この構図をそのまま時間軸に沿ってシフトするならば、TwitteriPadセカイカメラだと騒いでいる今様の諸々も、数十年後には木張りの床のバスや「アイロンのように大きな携帯電話」と同じように懐かしいものとなるのでしょう。