統計的期待?

 歳のせいか新しい話題ばかりを追うのもしんどくなってきたので、最近は古い話題を振り返ってみたりしています。
 というわけで、また十年前のWeb日記の話題より。

NHKの「クローズアップ現代」で駅のアナウンスについて放送していた。阪急電鉄では駅や車内の放送を極力少なくし静かな環境に配慮した乗客サービスを行っていると言う。特にマナーについての放送は廃止した。英断である。

私が使う京王電鉄はその逆を行っている。前にも書いたので余り繰り返したくないが、過保護の親に口やかましく言われる子供のような心境になる。電車に乗ると車内での携帯電話の使用禁止、暑い場所は窓を開けて車内換気に協力する、7人掛けのいすには詰めて座れ、優先席は体の不自由な人に譲れ、バッグは前に抱えて、とまあ盛りだくさんのアナウンスである。そのアナウンスを聞きながら携帯の呼び出し音が車内にこだまする。効果があるのだろうか。もちろんやらないよりはましなのだろうが、そのアナウンスが携帯の音とあいまってさらに不愉快だったりする。

車内のルールはアナウンスしても守れない人は守れない。いくら言っても相変わらず携帯電話を使っている人はたくさんいるし、席を詰めて座らない人もいる。つまり教育というか礼儀の問題で、そういった言ってもわからない人の為に車内アナウンスで関係無い人が騒音公害を受けているということである。

阪急電鉄京王電鉄も結局、車内で携帯を使う人の比率はそれほど変わらないのではないだろうか。だったら静かなほうが良い。京王電鉄はサービスのレベルは日本一の私鉄である。戦後私鉄で初めて運賃を値下げした、そして複々線計画を諦めホームの延長で対応した経営センスのある会社である。もし過保護なアナウンスもサービス向上の一環として行っているのなら、その勘違いを早く修正し顧客にとって本当に必要なものは何かをもう一度考えて欲しい。

SHINOBY'S WORLD 1999年4月6日「大人と子供」

「顧客にとって本当に必要なもの」を考えるときに、つい見落とされがちだけどよく念頭に置かなければならないのは、「顧客」とは自分一人だけを指す単称名詞ではなく不特定多数の人々“一般”を指すものである、ということです。
 顧客としての自分にとって不快なサービスがあったとして、それは不特定多数の万人にとっても不快なものに決まっているから是正すべきだ、という判断が、不特定多数の万人を前提としたときには必ずしも妥当ではない可能性があります。なぜなら、その不快なサービスは私一人やあなた一人やAさん一人やBさん一人に向けられたものではなく、そういった諸々の人間すべてを含んだ「不特定多数の顧客一般」に向けられたものだからです。
 これは別にやかましい車内アナウンスをそれ自体として直接快いと思っている“個人”がいるという話ではなく、もしかしたら“個人”一人一人を取ってみれば誰も快いなどとは思わないことが、不特定多数の集団全体を包含した場合には、全体として不快を最小限に抑えるための必要悪でありうる、という判断もありうるのではないかということです。

 上記の人は、「教育というか礼儀の問題で、そういった言ってもわからない人の為に車内アナウンスで関係無い人が騒音公害を受けている」と指摘していますが、これは恐らく、車内での不特定多数の行動の統制はアナウンスではなく教育・礼儀によるものであって、アナウンスによって抑制できるものではないという判断に依るものだと思います。
 実際のところ、はたして車内放送による注意がどれだけの抑止効果を持つのか、それとも持たないのかについては、厳密に実証的な成果をあげることはできません。何故なら放送によっても抑制されなかった迷惑行為は実際に事象として発生した“実体”として把握することが(網羅することが現実に可能かどうかはともかくとして原理的には)可能ですが、放送によって抑制された迷惑行為は実際の事象としては発生していない“可能性”に留まるわけですから、その可能性を実証的にカウントすることができません。
 それ故に、車内放送の効果を知るにはどうしても推測に依らざるを得ない部分があり、また継続するか止めるかを判断するには実証的なカウントが出来ないところでの漠然とした「期待」、この場合には車内放送の心理的効果に対する「期待」に依るところがどうしても出てきます。この心理的効果に対する「期待」を低く見積もる人は、車内放送の継続は不必要であると考えるでしょうし、逆に心理的効果に対する「期待」を高く見積もる人は車内放送の継続は必要であると考えるでしょう。そして、効果をさほど高く見積もっているわけではないけれど無いよりはあったほうがいいと「期待」の中で比較考量した人は、車内放送の継続は止むを得ないと考えるでしょう。

 では、電車に乗る人は、鉄道会社のサービスに何を「期待」しているのか。というより、鉄道会社は自分のところの顧客が何を「期待」していると見積もっているのか。
 あくまでも私の推測ですが、車内放送そのものの騒音によるマイナス評価は、それによって抑制された(かもしれない)迷惑行為によるマイナス評価よりも“まだマシ”と鉄道会社には思われているのではないでしょうか。具体的に言うと、鉄道会社による比較考量では、車内放送のやかましさによるトラブル(≒クレーム)よりも、放送に含まれている諸行為によるトラブル(≒クレーム)のほうがより深刻だと見なされているため、例えば「椅子は詰めて座りましょう」というアナウンスに対する苦情よりも、実際に椅子に詰めて座らないことに起因する苦情のほうが多い状況が続いている場合には、この苦情の数が逆転するまでは「椅子は詰めて座りましょう」というアナウンスは継続されるのではないでしょうか。
 短くまとめるなら、車内放送による注意というサービスの効果の推計を、鉄道会社は恐らく、「そのサービスによって起きる苦情と、サービスの中で言及されている迷惑行為によって起きる苦情との比較考量」によって行っているのではないか、と私は思います。
 もしそうであれば、サービスを止めるという判断を鉄道会社が下すには、この数量が逆転することが必要になります(単純に数量だけで決めているのではないでしょうが)。つまり、「車内放送うぜー」という声が上回るか(前者の苦情の増加)、あるいは「携帯うぜ―」「席占領うぜー」という声を乗客が上げなくなるか(後者の苦情の減少)、という変化が起きれば、車内放送は無くなるというわけです。このような種類の判断は、「どちらがよりうるさいか」という個人個人の感覚・感性的直観に直接依拠して行われるのではなく、乗客の全体=不特定多数の顧客一般の行動(苦情の出し方)の傾向性に依拠した統計的判断(?)として行われるため、個々人が「車内放送なんてうぜーだけだろJK」と思うかどうかとは基本的にあまり関係ないのではないかと思います。