理論的道具

……俗に「運も実力のうち」などと言われるが、「実力」と呼ばれるものが評価されるも、されないも、「運」次第ではないか。(略)だが、運で得たにすぎない財産、名誉、知識…を、あたかもじぶんだけの努力で勝ち取ったと思っている人がなんと多いことか。
(略)
残念ながら、富や地位は無限ではない。たまたま人より多くを所有している人たちが、じぶんを多くを所有していることを正当化し、それを維持するには、「才能があった」だの「努力した」だのと言いたくなるのは不思議ではない。所有しているものに応じて、自分が人格的にも高潔で立派で尊敬されるべき存在であると思いたい/思ってもらいたい人も少なくない。それは勝手に思っていればよい。思うだけなら。だが、彼・彼女らが、たまたま不遇な境遇にある人々に自己責任論を突きつけたり、達成不可能な目標を強いるのは公正ではない。命がけの努力できるのも運であり、その努力が認められるのもまた運だとすれば、書店にあふれかえるビジネス啓蒙書に描かれる成功譚などは、不遇な人々にとって有毒でしかない。

実力も運のうち / 論駄な日々 2012年2月14日

 人間の行為を、もっぱら行為者のイニシアティブによる意志決定によってのみ始まる“原初の一撃”のように見なす近代的個人観は、確かに言われなき恣意的・専制的支配からの民衆の解放を目指すための理論的道具を近代市民社会に提供してきましたが、一方でそれは自分一人で生きて来られたかのような錯覚を生み出し、ひいては社会における実質的な不公正の放置を正当化するために都合よく利用される理論的道具にもなってしまったのかもしれません。