背景

 私は、「自分に自信がない」という言葉を聞く度に、「『自分に自信がない』と言い切ってしまう『自信』は一体どこからやってくるのか?」を問うようにしているのだが、最近は「自分」について過剰言及する「自分」について考えさせられることも少なくない(私自身、意識的か無意識的か知らぬが自己言及が過剰過ぎるという噂もあるが)。
 個人的には、自分自身にとらわれる「自分」から脱しようとすること、あるいは、「自分」というものを「自分」だけで捉えようとすることの限界について気づくことが決定的に重要だと思っている。が、この説明はなかなか難しい(試みることに意味があるのだから、「自分」から脱した後に、その「自分」はどうなるのか?と問うのはナンセンスだ)。
(略)
 人は決して見えない「何か」の存在を仮定できてはじめて、はじめて「見る」ことができるはずである。逆に、何かについて意味を付与しようとすれば、その意味からこぼれ落ちてゆくものは、少なからず生じる。上記引用の著者の言葉を借りれば、「同胞という概念は、兄弟ではなく、親しい仲間としてつきあえない人々がいることを想定している(すべての人が加盟しているクラブは、そもそもクラブではない)」(p.279)わけだ。

読書メモ(断片):考える道具 ─ おざわ日記 全国版 2005年8月22日

 何かを全体として十分にとらえようとするなら、その「何か」の外側にあるものを仮定して、「何か」と「何かでないもの」との境界をも画定する必要があるということなのでしょう。とはいえ、この「何かでないもの」はそれ自体確実な存在として認識できるわけではなく、だいたいはぼんやりと意識の中に浮いている、漠然とした「何か」の背景のようなものとして存在するのかもしれません。