失われゆくもの

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ハッブル天体望遠鏡のおかげで一層宇宙のことが詳しくわかるようになった。遠くの星雲や星の誕生と滅び行く様も今までと比べられないほど、知ることができるようになった。
でも、それと引き換えに失ったものは大きい。
虫の音を聞きながら肉眼で満天の星空を見るほうがどんなに素晴らしいか、凍えるほどに冷たい空気で澄んだ夜空がどれだけ綺麗か、デジタルで作り上げられた宇宙などでは感じることができない。今の時代では子供達にそれを伝えることは難しい。
時代と共に失われていくものだ、という御仁もいるが、失われるのは「誰かが壊している」という事実に他ならない。壊される前にその「誰か」を壊してしまえば、これ以上失われずに済むのだろうか。

「夜空の彼方」 ─ 日々の戯言 1998年12月17日

 交通機関が発達して長い距離を歩く習慣が失われた後に、健康という別の角度からウォーキングやら皇居ジョギングが流行ったり、商品が一通り氾濫した後に手作りが見直されることもありますが、概して技術的な発達によって得られたものの裏で失われゆくものの価値は、得られたものの利得に比べてなかなか気付かれ難かったり、せいぜい非実用的な「趣味」として見直される程度ではないかと思います。
 大規模な社会的分業によって、人間が“類として”全体で行う活動の領域や規模は拡大しましたが、その代わりに個々の人間が直接手掛ける活動の範囲や直接認識する世界はかえって狭くなり、メディア(広い意味での社会的媒介物)を通じて間接的に触れる範囲の方が増えていきます。でも、そもそも「全体としての拡張」を良しとする価値基準の上に乗っかっていると、その“外側”にありうる別の価値の可能性は見え難くなり、その別の価値を持つものを壊してしまっても「価値のあるものを失った」とはなかなか認識されないのかもしれません。