地球(ほし)を護るは天使の使命

 スーパーヒーロータイムの二作品(スーパー戦隊シリーズと仮面ライダーシリーズ)は、以前より毎年夏に劇場版を公開するのが恒例となっている。最近はライダーの夏・冬二作品製作やスーパー戦隊の冬上映(元々VシネマとしてリリースされていたVSシリーズの劇場上映化)などでだいぶ上映回数も増えたが。
 昨年(2010年)の夏も『仮面ライダーW』と『天装戦隊ゴセイジャー』の映画が二本立てで公開されていたのだが、何やら本編同様に評価がくっきり明暗を分けてしまった(戦隊の方が「暗」)。この夏の劇場版が2月にDVDリリースされたので、久々に見てみたところ……

 ……あれ? 普通に面白いよ?

 劇場公開時にあの傑作『運命のガイアメモリ』(仮面ライダーWの劇場版)と直接並べられ比較されてしまうという、野上良太郎なみに運の悪い巡り合わせにぶつかってしまった点は別にしても、ストーリー・演出ともに確かに劇場版スケールとしてはいかにも物足りない。これは劇場で見た時にもそう思ったし、今見返してもやっぱりそう思う。
 ただ、テレビの画面で改めて見て、これを劇場用映画ではなくテレビ放映用のフィルムとして見ると、放映開始1~2話の「パイロット版」に相当する「いつものエピソードよりちょっと豪華でサービスのいい娯楽回」という感じで見られないだろうか。私にはそう見えたし、そういう視点で見ると意外と満足できる内容じゃないかとも思った。裏を返せば、テレビ本編のスケール感以上に広がることが出来なかった作品であるとも言えるのだけど。

 これまでスーパーヒーロータイムで放送された作品の中には、『仮面ライダー剣』や『獣拳戦隊ゲキレンジャー』のように、放送中にはあまり人気が出ず内容面での批判も多かったけれど、全部放送が終了した後から次第に内容が再評価されていくタイプの作品が存在する。こういった作品は、リアルタイムの放送時にはいまいち盛り上がりに欠けたり物語展開に面白みが感じられないという人が多く出る一方で、全部終了したところで物語全体を俯瞰すると、全体として一つのきれいな流れを持った物語に仕上がっている作品として評価されていることが多いように思う。
 最終回を終えて物語が最後まで一通り語られ、既に後番組の『海賊戦隊ゴーカイジャー』も軌道に乗りつつある今、改めて『天装戦隊ゴセイジャー』をいう作品を振り返ってみたら、果たして印象は変わるだろうか?

 全体のストーリー構成という点から見た時の『ゴセイジャー』の特徴として、複数の敵組織が順繰りに現れるというプロットが挙げられる。宇宙からの侵略者「ウォースター」、長らく地下に封印されていた怪物「幽魔獣」、古代文明の末裔たる機械帝国「マトリンティス」という、それぞれ特徴を異にする三種の敵集団が人類の脅威として代わる代わる出現し、その後には最後の敵として同じ護星天使のなれの果て「救星主のブラジラ」が立ちはだかる。過去の特撮ヒーロー番組にも、『特捜ロボ・ジャンパーソン』や『轟轟戦隊ボウケンジャー』のように複数の敵組織が同時に出現する作品はあったし、私自身は未見だが複数の敵組織が順繰りに出現する作品もあったようだ。
 それぞれに異なった特徴を持つ複数の敵組織が現れる作品は、上手く作れば一粒で三度おいしい展開にも出来るのだが、裏目に出るとどの一つの組織にもあまり長い尺を割くことができないため、それぞれが薄味になってしまう危険性もある。残念ながら『ゴセイジャー』については後者の評価のほうが多く見受けられたようだ。
 ただ、全体のストーリー構成という観点から考えると、ヒーローが順繰りに次々と現れる別種の敵に立ち向かわざるを得なくなるという状況には、戦闘シーンの手数やバリエーションを増やすというアクション面での演出以外の意図もあるのではないだろうか。これはヒーローたるゴセイジャー達が元々護星天使という“人間離れ”した設定であることから思いついたことなのだが、敵の特徴が物語の性格に直結している作品と異なり、ゴセイジャーでは敵の特徴がどんなものであるかは、同じ護星天使出身のブラジラを除いて、実はそれほど重要な要素ではないように見える。
 ウォースター編の終盤で首領モンス・ドレイクを倒した後、ゴセイジャーの面々はまるで完全に戦いが終わったかのような反応を示している。

ハイド「これでみんな、恐ろしい記憶から解放される」
エリ「やったね私たち」
アグリ「もう誰も、苦しむことはない」
モネ「私たちが守り切ったんだよ」
アラタ(頷いて)「これが、護星天使の使命なんだ」
 ……
望(友達に対して)「あのさ、天使っていると思う?」

(epic 15「カウントダウン! 地球の命」より)

「いい最終回だった」みたいなネタコメントの対象にもされがちな流れなのだが、実際これは普通の番組であれば最終回に持ってきてもおかしくない流れだと思う(“本物の”最終回にするにはちょっと薄味ではあるけれど)。翌週に生き残ったデレプタとの対決が残っているとは言え、この時点で当面の唯一の敵であるウォースターとの戦いは完全に終結している。次から幽魔獣という新しい敵が出現することは、作中の登場人物にとってはまったく予期せぬ出来事だ。
 次いで、マトリンティス編の最初に当たるエピソード(epic 33「恐怖のマトリンティス帝国」)では、天の塔の礎を犠牲にすることで辛うじて幽魔獣との戦いを終えたところで、望がゴセイジャーの皆の心情を改めて尋ねることで、次の戦いに向けたそれぞれの立ち位置を再確認するというプロットが用意されている。ここでも、護星天使の戦いはいったん完全に終了しているのであって、その次に出現するマトリンティスは、ウォースターや幽魔獣と特段の関連性を持っているような描き方がされていない。
 これは特撮ヒーローものとしては意外と珍しいことではないだろうか。通常この手の番組では、敵の性格付けと味方の性格付けは密接にリンクしており、「こういう敵だからこそこういうヒーローが立ち向かう」という対応関係や関連性が設定されることが多い。ウルトラマンは地球人の手に負えない宇宙怪獣から地球を守る宇宙人だし、仮面ライダーは敵ショッカーに改造されたという出自を持っている。それぞれの後継作も、敵の性格付けと味方の性格付けは何らかの形でつながりをもっていることが多い。それぞれの作中でのヒーロー達は、特定の敵の脅威に対抗するために生まれた特定の資質を持つ存在であるか、敵と味方が独立して成立している場合にも作品カラーを特徴づけるための共通したモチーフが持たされることが多い。
 ところがゴセイジャーの場合、敵と味方の間にこれといったモチーフの共通性が(ブラジラ以外では)見られない。この点はしばしば作品カラーの「薄さ」を生んだ要因の一つとして批判されることもあるところだけど、どちらかと言うとこの敵と味方のつながりの薄さは、意図的に持ち込まれたものである可能性が高いように思う。

 元々「護星天使」は、遥か昔から地球とそこに住む命を護るために人知れず活動してきた存在とされているが、別に特定の「何かから」護るという目的の限定はされていない。特定の脅威に対抗することに特化した性格は、元より護星天使には備わっていない。言い換えれば、ゴセイジャーの戦いにおいて「何から」護るかはそれほど重要ではない。相手が何であれ“護る”ことには変わりがないからだ。むしろ、戦士としてのアイデンティティが敵の性格ではなく「どんな敵であれ脅威から護ること」に置かれているのであれば、どちらかと言うと「何を」護るかのほうがポイントとなりやすくなる。
 幽魔獣編から現れた追加戦士のゴセイナイトが、このゴセイジャーの「何を」のアイデンティティを揺るがす存在として出現してドラマ的側面を盛り上げたのは、その象徴的な現れであると言えるだろう。もとより「何を」への問いは、ハイドが望の記憶を容赦なく消去しようとした1話の時点から少しずつ現れている。また、最後の敵であるブラジラだけに「元護星天使」というゴセイジャーと同じ性格付けがされているのも、ブラジラだけが敵の中でこの「何を」の要素を背負わされているからだろう。でもこれは、ゴセイジャーがそれまでの三種の敵との戦いを通じて「何を」の問いに特化していったからこそ持ち込めるプロットだったのではないかと思う。もし序盤のうちから見習い護星天使ゴセイジャーと元護星天使ブラジラとの戦いという構図が固定されていたら、戦隊のメンバー全員が人間とは異なる存在として位置づけられているだけに、人間とは無関係のところで発生した天使同士の内輪揉めに人間が巻き込まれているだけという、なんとも後味の悪い構図が定着してしまう可能性もあっただろう。

 この点で、最初から戦隊としての名乗りに含まれ最終回のサブタイトルにもなっているフレーズ、「地球(ほし)を護るは天使の使命!」のテーマ上の要点は、護星天使が護るべき「地球」の定義域(?)の問題に集約していると言える。それは具体的に何を指しているのか? 当初ゴセイナイトが問題提起していたように、もし人間が地球を護るどころか損なっているとすれば、人間は護るべき対象から除外されるのか? あるいはブラジラの言うように、現存する全ての生命もろとも地球をいったん消去することで成立する新しい無垢な地球もまた、護星天使の「護るべき地球」という範囲に入るのか?
 特撮ヒーロー作品でこういうテーマが取り扱われるのは決して目新しいケースではないのだが、護星天使という人間ならざる者を当事者とすることで、この問いに対する作品なりの回答に、主人公たちの内在的な理解・納得の過程を含ませることが出来るのではないかという点に、私はちょっと期待していた。もしゴセイジャーが人間の変身した戦士であれば、同じ人間を護ることはある意味自然な発想ではあり作中での説明も必要としなかったところだろうが、自然な発想であるだけに実は話者の先入観があっさり入りやすいところでもある。護星天使が人間ならざるものだからこそ、この部分を一歩引いた視点から掘り下げやすいというメリットがあるのだ。
 でも、見習い天使が人間との接触や味方同士での葛藤や敵の立場との相違の描写を通じて、「自分たちが護っているものは何か」を自覚していくという、ゴセイジャーの設定を考えればもっとも掘り下げ甲斐のある“おいしい”テーマ性の描写は、残念ながらあまり上手く回っていたとは言い難いように思う。作中の描写を見ると、この点にもそれなりに重点が置かれていたことは見て取れるのだが、明るくのんきなゴセイジャーの作風で掘り下げるには、やはり少々重すぎたのかもしれない。しかも、キャラクターの行動原理や具体的な行動や間接的な関係性描写などといった広義の作品演出の中でテーマ性を消化するのが難しかったせいか、「何を護るか」についての描写はしばしば長台詞に頼りがちになっており、よけいに消化不良の印象を受けることになってしまった。明るく楽天的な護星天使の描写を通じて重いテーマを追求するという目標は十分野心的で評価したいところなのだが、このあたりで齟齬を来たしてしまったことが、シリーズ全体の流れにぎこちなさを生んでしまったことは否めない。