修行とか

 お義母さんから鑑賞券をいただいたので「御園座創立百十周年記念 陽春花形歌舞伎」を観に御園座へ行きました。
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 さて肝心の歌舞伎ですが、今回は「双蝶々曲輪日記 引窓」「道元の月」「お祭り」の三作。
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 ……「道元の月」は立松和平原作の新作で曹洞宗の開祖道元のお話。永平寺で弟子たちと修行を積んでいる道元が、時の執権北条時頼に請われて鎌倉にやってくる。権力闘争と血みどろの戦に疲れ、いつかは自らも滅びるのではないかと不安に苛まれてる時頼は道元に救いを求めるのだけど、道元は一言「すべてを捨てなさい」と言う。執権の地位を捨て栄誉も家族も捨て、ただ座禅をして悟りを開けと。
 これはまあ曹洞宗のプロパガンダ演劇ですね。うちも一応曹洞宗で道元というひとは好きなんだけど、この話にはちょっと疑問を持ちました。たしかにすべてを捨てて座禅を組めば迷いは消えるだろうけどさ、すべての人間が自分の仕事を捨てて修行始めたら、世の中が成り立たなくなるじゃん。僧が修行三昧の暮らしができるのも、それを直接間接に支えている人々の仕事があってこそなんだし。芝居の最初のほうで典座(食事の支度)をしている僧が「衣食住すべての行いが修行である」と言ってたので、ならば執権もまた修行であると言うのかと思ったんだけど。
 ……

初めての歌舞伎、初めての御園座 ─ 太田忠司の不定期日記 2005/4/18

 なんだか仏教の上座部(小乗)と大衆部(大乗)の違いみたいな話です。ちなみに「小乗」というのは大乗側が名付けた一種の蔑称なので、史的言及以外ではなるべく控えるようにしましょう(なんのこっちゃ)。
 曹洞宗を含めた禅の系統は、流れとしてはインドから中国に伝わって大乗化した仏教から出てきたものですが、内容は個々人の修行と悟りを目指した原初の上座部系仏教に近いものとなっています。そして仏教に限らず、悟りを目指して修業するタイプの宗教実践は、現実の世の中の有り様をそのまま前提した上でその中で生きる己を考える、という道行きを取ることはほとんどありません。むしろ、現実の世の中についてのあらゆる認識を一度白紙に戻して原初から自分と世界の関係を再構築していくことになるので、自分と世の中の関係や、世の中にとって自分がどうあるべきかなどという話は基本的に後回しにされ、まず修行や悟りによって自分自身がどうなるかが先行して模索されてから、その後で考えられることになるわけです。
 世の中と自分の関係や自分の存在意義についてあまり突き詰めて思い悩んだことのない人は、まずこのあたりの順序立てが奇妙で“浮世離れした”感じに見えるでしょうし、人によっては薄気味悪いという印象を持つことになるのかもしれません。