「本来そうあるべき」≠「昔はそうだった」

「平等」や「公正」を目標として目指す人が、恐らく頭の中で大まかなロードマップとしてイメージしているのは、
「本来は平等(公正)であるべきところがそうなっていないので、これから平等(公正)な状況の達成を目指す」
という志向的なビジョンではないかと思います。
 この時の「平等」や「公正」は、将来的に達成されるべきだが現状ではそうなっていないという、来たるべき将来に期待されるあるべき理想像を指しているわけですが、「本来的にはそうあるべき」という捉え方において、私たちはしばしばちょっとした錯誤に陥ることがあります。
「本来的にそうあるべき状態」という観念は、現実にはしばしば、原初状態からの逸脱状態として捉えられます。この現実世界において何らかの不都合が存在しなければ、人間社会は本来的に提示された(「平等」や「公正」などの)理想状態であるはずだった……ということです。このビジョンを先行させると、私たちは「現実に不都合を生じさせている障害要因がもし存在しなかったら」という仮想状態を想定し、この仮想状態を「本来的にそうあるべき状態」と同一視することになります。そして、この仮想状態と現実態との差分が「解決すべき問題」として前景化されるわけです。
 ここで私たちが陥りがちな錯誤が、「本来的にそうあるべき」を「元々そうであった」という、時系列的な先行性に読み替えてしまうというものです。よくよく考えれば、「本来そうあるべき状態」と「過去にそうであったが今は失われている状態」が必ずしもイコールで無ければならないという必然的な理由はどこにも無いのですが、未来に向けて目指されるべき理想像を“本来性”として提起してしまうと、「過去にはこうであった、今はこうではない、だから将来に向けてこういう状態を回復しよう」という、失地回復というか原点回帰というかレコンキスタというか、本来そうあるべきであることの根拠を過去の状態に求めているような主張として、「本来的にこうあるべき」の意見が捉えられてしまうことになります。
 だから、この意見に批判的な人が、本来性と過去性の混同という錯誤の下にこの意見を捉えるなら、提示されている「本来的にこうあるべき状態」が過去には存在しなかったという事実の指摘をもって論破完了と見なしてしまうことにもなります。「平等(公正)であるべき」なんて言っても、人間社会が過去にそんなレベルで平等(公正)であったためしなんて無いじゃん、だから「本来的に平等(公正)」なんて主張は成立しないんだよ、でFAとされてしまうわけです。

 

 本来性の主張の根拠をついつい過去に求めてしまう心性が生まれるのには、いくつか理由があって必ずしも一つには絞れないように思いますが、大きい要因として「自然状態」としての個人という観念があるのではないでしょうか。特に政治の分野における「本来的にこうあるべき」の主張では、この観点がよく現れるように思います。
 近代的な個人主義に立脚した欧米型の法体系全般(日本も含まれます)では、法が全体として目指すべき「本来こうあるべき状態」が個人に立脚して提示される場合には、「個人が当然の権利を保有しており常に行使し得る状態」や「個人が当然の義務を遂行している状態」などとして書き表されます。そして、必ずしも明文化されているとは言えないにせよ理念上これら全ての状態を根拠づけるものとして、人間が社会生活を営む上で決して奪われてはならない、論理的なデフォルト値としての「自然権」という概念があります。この「自然権」は、近代の実定法(憲法)では主に「人権」概念に集約されていますが、これは原則として全ての法体系を基礎づけるもっとも原初的・原理的な概念であり、具体的な法の制定・執行において権利の保有や行使が制限されるのは、あくまでも社会全体として自然権/人権を万人に最大限度保証するための、あくまでも手段としての権利制限に過ぎないということになります。
 ここで注意しておかなければならないのは、自然権や人権の原初性とはあくまでも法体系の中での論理的な順序づけとしての原初性であって、人類の歴史上の時系列的な順番として自然権や人権が確保されている状態がまず最初にあったというわけではないということです。
 ある分野でこれこれこういう人権を回復せよという主張をしたとしても、別に「クロマニョン人や縄文人が持っていた権利を現代人は持っていない」という意味を含んでいるわけではありません。このような錯誤が生まれやすくなった背景には、個人主義に立脚した自然権・人権の概念を最初に確立していった近代啓蒙思想の人たち、特にルソーあたりが、自然権を説明する時に「もともと原始人が持っていた諸権利」という例え方をしてしまい、直感的にわかりやすい例えなのでそのまま広まってしまった、みたいな経緯でもあるんじゃないかと想像してしまいます。論理的な順序において基本的人権がいちばんの基礎・原初にあると言われても、「でも○○法は日本国憲法よりも前からあるじゃん、それなのに後から出来た日本国憲法がその前からある○○法を基礎づけているなんて論理的にありえないじゃん、順序としてぜったいおかしいよ」というふうについ考えてしまいがちではないかと思いますが、まだ国が出来る前の“自然状態”では人間の生活は人権に相当するものが保持されていたという形で、いわば歴史の“はじめて物語”のようなスタイルで説明すれば、「ああ、人権は順番として一番最初からあったから一番の基礎にあるんだな」と、まあ何となく納得しやすくはなりそうです。
 でも、説明のわかりやすさのために、あたかも歴史的に先行しているものが論理的な順序としても先行しているかのような、聞き手の素朴なイメージに即した例えによって話を進めてしまうと、聴き手は自分自身のそれまでの認識を修正する必要を感じないので、従来のステレオタイプを上書き・強化するような形で説明を受容することにもなります。

 

 さらに、ここに「自然主義の誤謬」、つまり「人間の手が加わらないものが一番無理がなくて“自然”なので良いことなのだ」という観念が加わると、自然権・人権が重視されるのはそれが時系列的に一番原初のものであり、従って人間にとって一番“自然”なものだからである、という認識が生じることになります。自然権を理論的に根拠づけるために仮構された原初状態が「自然状態」と呼ばれていることも、この自然主義の誤謬の発生に一役買っているかもしれません。
 このような認識の下に立って、ある論点において人権を主張している者に対しては、こう言えば反論が終了してしまいます。
「いや、そもそも人権って割と最近になって作られたフィクションであって、自然でも昔からあるわけでもないから」
 これは、厳密な法議論における「人権」概念に対しては何の反論にもなっていませんが、「時系列的に最初にあるもの」「“自然”なもの」として「人権」を理解している人にとっては、これだけで十分なわけです。

 

 最初に挙げた「平等」や「公正」についても同じことが言えます。この場合、「本来的に平等(公正)であるべき状態」を目標として掲げる主張への反論はこうなります。
「いや、別に人間社会ってそんなに平等(公正)だったためし歴史上ないんだから、本来的にそうだなんことがあるはずないじゃん」
 ここで「本来的な状態」とは、「もし俎上に乗せられている障害要因が存在しなかったとしたら、当然にそうあったはずの状態」として理解されています。その障害要因がなければ“自然に”そうあったはずの状態、それにも関わらずその障害要因のせいでそうならなかった幻の状態、それ故に障害要因を除くことによって目指すべき目標としての状態、それが「本来的にあるべき状態」として提示されるのです。

 

 過去においてこうだった。
 現在はこうでない。
 だから人間社会の“自然な”ありかたとして未来はこうあるべき。

 

 この主張をへし折るには、「過去においてこうだった」を否定してしまえばいいわけです。

 

 過去において人類社会は平等(公正)じゃなかった。
 じゃ、平等なんて別に人類社会にとって本来的でも“自然”でもないんじゃね?

 

 ……ということです。ある理念の妥当性を歴史的な原初性や自然主義の観点から訴えるという主張の仕方は、最初からこういうツッコミどころを相手に与えているのです。