ボランティア

今日も職員研修の予定があったので、今日こそは行かなければ!ということで出席しました。
「ボランティア活動促進研修会」という題目だったのですが、
親父ギャグ連発の寒い講演で、それを聞くのがボランティア、という感じでした。
資料を8枚も渡されて、それを読んでいくのですから、退屈も極まれリ、というものです。
違うことを言えよと思ってると、ギャグを言うのだから堪りません(^_^;)

YOSSHII'S ROOM 徒然雑記帳 2000年2月8日

 こういうのってたぶん、行政的にあらかじめ決められたカリキュラムがあって、講師役の人もその内容に即して講義を進めないといけないという義務があったりしそうですね。講義ではないけれどパートタイムで似たような仕事をしたことがあるので、資料通りに淡々と読み上げなければならない空気が何となく想像できてしまいます。聞く側も読む側も、「平等・公正なサービス提供」という行政的な理念に対してボランティアを提供しているようなものでしょうか……?

ステレオタイプ

 表題は「じっぱひとからげ」と読む。言葉そのものは知っているけれど、漢字でどう書くのか、かならずしもきちんと自覚しているわけではない。この言葉もそう。「ぱ」を「把」と書くだの、「からげ」を「絡げ」と書くだの、はほとんど無自覚である。さらに、「十」を「じっ」と発音するのも、こういう熟語ならではの芸当で、最近は「じゅっ」と読む方が優勢のようである。
 それはさておき、今朝の朝刊で、いい言葉を見つけた。
 「今どきの若者は」の後にはあまり感心できない言葉が続くものですが、私の母は「今の若い子でもええ子多いで」が口癖。日ごろから「世の中、悪い人なんかおれへん。みんなええ人ばっかりや」と言っているので若者に対しても同様のようです。
(『毎日新聞』2000年11月14日朝刊13面「女の気持ち」欄、奈良県 梅谷紀子 33 公務員「今どきの若者の中にも」)
 「若者」「コギャル」「女子高生」「17歳」など、ある一定の特徴を共有する人に対して一つのラベルを貼る。また、その人の身体的な特徴を名付けて、「茶髪」「ピアス」「ガングロ」などと名付ける。
 こういった言葉は、その特徴を名付けたものであるはずなのに、使っているうちに、一定のマイナスイメージを帯びてきて、ある人がその特徴を一つでも持っていると、全部、それにあてはまるといった錯覚・誤解を生むことになる。味噌もくそも一緒くたにする発想。玉石混淆のものをひとまとめにすること。木を見て森を見ない観察。
 「若者」は、年齢的に若い人を指す。ところが、言葉を乱す者、傍若無人な振る舞いをする者、一般成人には理解不能の人種、といったイメージを与えられることがある。これは、一を聞いて十を知る、の誤解、拡大解釈、過剰般化である。十把一絡げにして見えてくるものと、見逃すこととがある。
 いろんな若者がいることは、頭では分かっているつもりである。しかし、「若者」という言葉を聞くと、つい、マイナスイメージのほうに引き寄せられて、その色眼鏡で見ることになる。個々の若者はたまったものではない。
 人はみな、なんらかの社会的属性の規定を受けて存在している。しかし、それぞれに、個性的な存在でもある。この両方のバランスをうまく取って一人ひとりの人物を見るには、訓練が要るのではないかと思う。
 今朝のこの記事は、十把一絡げ的な物の見方の得失・功罪を考えるきっかけとなった。

十把一絡げ ─ むささびとびのしんの身辺雑記 2000年11月14日

 こういう、価値判断的な先入観を含んだ集団的な属性を現す概念を、私などはカタカナ語(?)で「ステレオタイプ」と呼んでしまうのですが、ともあれこうした概念は、それを誰かに適用することで、その対象の“本質”について何となく十分に説明されたような気になってしまい、対象についてそれ以上深く知る必要をあまり感じなくなってしまうという弊害を持っています。とはいえ、認識においても記憶力においても限りある身の人間には、ありとあらゆる事象すべてをその個別性のみにおいて把握するなんてことは不可能なので、社会生活の中で不特定多数の人間との交渉の可能性のある人間は、どこかでこうしたステレオタイプに流れがちな属性を援用せざるを得なくなります。言葉を使って認識を拡大してきた社会的動物ならではのジレンマと言うべきでしょうか。

忍び込む季節

8月の末ごろになると何処からか浸入したものか夜9時頃になるとお店の土間のどこかで、こおろぎが鳴き始める。何も知らないお客様はわざと飼っているとでも思っているのか、「まあ!風情があるわ」…などと感心してくださる。又、「月見に相応しい」などと喜んでくださる方もある。想えば、毎年決まったように虫の声をこの土間で聞きながら秋を迎えてきたような気がする。お店を閉めて帳場で一人この虫の声を聞きながら今年も秋を迎えます。

「虫の声」 ─ 雪峰花譜 おかみの花日記 2002年9月15日

 人の手で意識的に季節感を出そうとしなくても、自然はいつの間にか人間の生活空間に、季節の移り変わりを忍び込ませてきます。でも、空間が高いレベルでコントロールされ人工物の音が溢れる都市部に住んでいると、平均気温や湿度や降雨量(降雪量)などといったコントロールしきれない巨大な気象の変化はともかく、「風情」とも言える微細な変化にはなかなか気付きにくいものです。

インサイダー

ウチの選挙区から立候補するしている、A氏(仮名)という人がいるのですが
私の後輩が以前、A氏の事務所でバイトしてたそうです。
A氏について私は全然知らなかったので、良い機会だと思ってその後輩にA氏のことを訊いてみました。

後輩「うーん、私だったらA氏には投票しないかな…」

…そうか。内部で文句いわれてるような人は信用できんなー(苦笑)私もやめとこ。

教訓:皆さん身内は大切にしましょう。

「選挙」 ななしの日記・2000年6月17日

 むむむ、なんというインサイダー情報(笑)。どこで誰からどう見られているかなんて、なかなかわからないもんですな。選挙に出る予定のある人はお気をつけて(?)。

TW

 最近気になった歌を聴きながら、いろいろと思いを巡らせる。

この世界の単なる敗者でいられないのなら
両耳ふさいで 闇雲に暴走すること
本線から踏み外していくこと
それこそ健全じゃないか
I'll try to keep in contact with you

石川智晶「TW」)

 本線から踏み外していく生き方に、始めは何らかのロマン的決意があったにせよ、あまり長く続き過ぎるとそれもまたひとつの惰性と化してしまう。でも若い時分にはそのことに気付かない。気付いた時には遅すぎる。そういうものなのかもしれない。
 誰かに自分の生きる世界を語らせない、代理/表象させない。そう決意して思って自分自身の、自分だけの言葉を紡ごうとあがき続け、その果てに見える地平は何だったか。

 人ならざる身になって人の世に帰還した青年と、かつて国を失いながらも自らの信ずる道を生き抜いた盲目の老姫の再会。私はそのシーンを美しいと思う。描かれていたのは、自らの意志で「踏み外した」果てにもたらされた救済であり、それがあの作品なりの「幸福」、あるいは現実にはそうそうあり得ないという意味でのファンタジーなんだろう、とすら思う。